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「常識」からの脱却?

 その第一歩は,日本(人)が「中央部に集まってくる」という現象を理解することかもしれない。たまたま,筆者が最近読んだ『グーグルに勝つ広告モデル~マスメディアは必要か』(岡本一郎著,光文社新書)という本に関連する記述があった。それはメディアが生み出すコンテンツのあり方を論じた部分で,既存メディアが提供するコンテンツは「誰もが好むもの」に収斂し,統計的にいえば,「好みの中央値」に近いところでひしめきあってしまう,と述べた上で岡本氏は次のように書いている(本書p.166)。

 「余談ですが,これはマーケティングの世界で起きていることとまったく同じで,もしかしたら日本人というのは,戦略的に中央値から外したところに自分のポジションを置く,というのが苦手なのかもしれません」。

 それでも岡本氏は,「今後間口が無限に拡大できるネットにコンテンツの流通経路がシフトすれば,万人受けするコンテンツは尖ったコンテンツに総当たり戦で全部負け」るため,10人中8人が「まあいいいんじゃないか」というコンテンツよりも,10人中2人が「最高だ」と絶賛する一方で,8人が「クソだ」とこき下ろすコンテンツが必要になると述べている。

 つまり,歴史的または文化的な要因で日本人は,日本人なら誰でもが知っているべき「常識」(またはスタンダード)としての情報に対するニーズが高かったのが,次第に各個人またはより小さなグループだけに通じるような情報がより求められるようになってきた,ということのようである。

 製造業を考えても,これまでは日本企業が得意とする「技術」が製品の付加価値を決め,それが「常識」として求心力を持ち,その中心点に引き寄せられるように顧客が集まり.中心部を形成したと考えられる。それが一部の製品では,次第に「常識」の求心力に陰りが出てきて,多極化してきている状況なのかもしれない。

 背景には,「常識」がなくなってきている時代になってきたという状況があるようだ。「常識」がなくなってきたということは,製造業にとっては,明確な目標を決めにくくなってきたということを意味する。日本企業が培ってきたものづくり力は,明確な目標があってこそ大きな力を発揮してきた。よく言われることではあるが,「どうつくるか」に代わって,「何をつくるか」の比重が少しずつ増してきているのである。