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 本間は昭和22(1947)年、東京で生まれた。立教大学の経済学部で学んでいたが、20歳の時に中退、木工芸彫刻家をしていた柴崎始(しばさきはじめ)に入門する。

 柴崎は造形作品を多く手がけていたが、それをオイルで仕上げることを常としていた。そこが気になってしょうがない。本間の母は、木彫の作品を朱漆で仕上げる鎌倉彫を趣味にしていた。その作品のイメージが脳裏に焼き付いていたためか、漆で仕上げてみたいとの思いがふつふつと湧いてくるのである。


茶道具の茶器として使われるもので、金輪寺と呼ばれる形状のもの。名品と呼ばれる金輪寺のカーブや寸法などをよく調べた上で、美しい木目の黒柿を材料に作製した。

 そんな折、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)だった黒田辰秋のペーパーナイフとインク壺を目にする。それら独特の造形を示す作品は、木に漆を摺り込む「拭漆(ふきうるし)」と呼ぶ手法で仕上げられていた。漆は木のやわらかさや木目の面白さを殺さず、むしろ引き立てている。「これだ」。目指すべきところは、自ずと導き出された。伝統を踏まえながら、神秘的な自然の恵みである木と漆という素材の個性を生かした、これまでにない作品を作り出したい。本間はそう考えるに到る。

 32歳の時に初めて茨城県の大子の漆に出会い、手グロメによる精製を始めた。その取り組みは、現在まで続く。

 さらに35歳の時には、漆芸の人間国宝、赤地友哉に入門した。赤地友哉は金沢の塗師の家に生まれ、東京で随一の塗師と称された渡邊喜三郎に学んだ高弟であった。本間は晩年の赤地友哉にきゅう漆(きゅうしつ、下地~上塗りの工程)の技法を学び、晩年の赤地が手掛けていた張抜きの手法も習った。張抜きは木型に和紙を蕨粉糊(わらびこのり)で貼り重ねて器形を作り、木型を抜いてしまう手法でできた素地で、そこに漆を塗ると紙の風合いを生かした軽い漆器ができる。その素地を手掛けていたのは、赤地友哉の娘である赤地友敬で、友敬に張抜きを習い、現在は長男重隆を友敬に入門させている。