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 年齢の所為か,人前で話をさせていただく機会が増えた。自動車の話,ITの話し,制御の話し,数学の話し,携帯電話の話し,たまごっちの話し。講演履歴を見ると八面六臂? いやいや,はちゃめちゃ。

 もっとも,私の名前は新誠一。「新」しいことを「誠」実に「一」つは言わないといけない。それができなければ,命名した爺様に顔向けができない。もっとも,爺様にもっとも欠けていた「誠」を孫に名づけたとも言われている。

 爺様はともかく,「何か面白いことを一つ」は心がけている。このコラム同様に,お叱りを受けることも多いが,お褒めの言葉を頂戴することもある。「先生は素晴らしい。おっしゃるとおりだ,先生を信じてついて行きます」。

 まて,まて。俺を信じられても困る。もちろん,エンジニアの地位を向上して欲しいとか,行き詰まった開発現場をどうにかしてくれとか,ちゃんとした経営をしてくれだとか,聞き手の皆様に伝えたいことは山ほどある。しかし,信じてもらっては困る。

 宗教家は信じさせることが大事である。入信という言葉があるぐらいである。しかし,私は宗教家ではない。それでは何か。もちろん,教育者である。

 教育者は信じさせてはいけない。教育者は疑を持たせなければいけない。世の中の常識に疑いを持つことで,新しい発明や発見がある。全ての研究者が言うだろう。教科書を疑えと。ケプラーの法則が不十分だと言って,ニュートンが万有引力の法則を発見した。そして,ニュートンを否定することでアインシュタインは相対性理論を築いた。

 イノベーションとは疑うことである。教育者は自分より大きな人間を育てて初めて自慢できる。自己否定の職業である。そう,アインシュタインを否定できる学生を育てたら教育者冥利に尽きるだろう。

 知識も経験も乏しい学生が海千山千の新先生を負かせるのか。いいんです。一度勝てばいいんです。学生は教授に負けて当たり前。100回戦って,99回負けていいんです。一度でも勝てば,貴方の勝ちです。教育者は一度負けるために100回戦います。

 話を戻し,私も小人。褒められればうれしい。しかし,新しいものを知る喜びを知ってしまった。これは褒められるより魅惑的である。聞きたいのは疑問,否定の言葉。新しい視点からの突っ込み。もちろん,会話が成り立たなければ意思が疎通できない。それを前提とした的を射た突きが欲しい。

 昔,工学部の大学2年生を対象に計測通論という講義を担当した。その試験問題の一つは「先生の講義の一つを批判せよ」というものだった。前書きに「独創性を第一に判定する。次に,論理性,明解性を判定する。故意,偶然に関わらず類似した回答は大幅に減点する」と記した。答案の大半が生煮えであった。若い人は批判に慣れておらず,この問題を封印してしまった。誠に残念なことである。