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 昭和35年(1960年)に宇部興産の中安閑一社長と上田四朗設計部長(後の常務)が米国に行き,日商(後の日商岩井,現双日)の世話で米レークエリー社と油圧プレス機の技術提携が行われた。当時は技術提携をするといっても日本に外貨が少ないため,通産省の認可は厳しかった。そのため,目的や成果予想など通産省が要求する資料のとりまとめや説明に苦労が伴った。

 この技術提携の認可業務を担当し,難題を解決したのが清水和茂君(故人,元ウベアメリカ社長,A-Mold初代社長)と谷口博美君(元宇部興産取締役,元富士車輌社長)だった。何百種類もあったレークエリー社のプレス機の中から,2人が的を絞ったのは,押し出しプレス機とダイカストマシンだ。「これからの日本で発展する産業は住宅産業と自動車産業であり,そしてその材料はアルミニウム合金だ」と考えた結果であった。

 その判断は正しく,宇部興産がその後,この分野で世界のトップクラスになるとともに,機械部門の主力製品ともなり,さらにアルミホイールを生み出す原動力ともなったのである。「先見の明」と言わざるを得ない。また大手重工メーカーは,当時猛烈な勢いで成長していた鋼に注力しており,アルミ合金の加工機械はすき間(ニッチ)商品でもあった。そして,若い社員たちの考えを支持して自由にやらせながら,バックアップしてくれた中安社長以下の幹部に感謝している。

 その認可が下りた数日後,上田設計部長が私の所に来て「今度の油圧プレス機の設計を担当しないか?」と言った。清水君と谷口君が私を引き抜こうと動いたのである。当時石炭粉砕ミルや集塵サイクロンなどを担当し,粉体工学研究会でも顔役になりかけていた私には,正直言ってあまりありがたい話ではなかった。だが,近々レークエリー社から技術者が指導に来ると聞き,とりあえず「これは新しい技術を学べるチャンスだ」と思って参加することにした。

 こうして,昭和36年(1961年)1月にレークエリー社からスワンソン氏が宇部興産に来て,約10日間,油圧プレス機の基本教育を受けた。その2月,プレス機の設計係が発足し,私は係長に任命された。メンバーは7人,うち3人は入社1年未満。係の平均年齢は23歳という,若いが油圧プレス機については「素人」ばかりのグループだった。

 そのころ,レークエリー社から大型ダイカストマシンが神戸製鋼所の名古屋工場に輸入された。私は,勉強のためにその据え付けの手伝いに行くように新入社員だった川口東白君(後に専務)に指示した。これを受けて川口君は急いで勉強したが,油圧回路が分からない。そこで私の所に聞きに来るのだが,こちらもずぶの素人係長。分かるはずもなく「お前が自分で勉強して行け」という始末。後日,社内報に「あの時の藤野さんの顔は鬼に見えた」と書かれてしまった。

 名古屋に行っても川口君は「新入社員が来ても邪魔なだけだ」などと言われ続けたらしいが,通訳をするということで認めてもらい,据え付け実習をさせてもらった。未経験のことばかりで彼は相当苦労し,体重は10kgぐらい減った。今考えると随分無茶な要求をして気の毒なことをしたと思っているが,当時の状況を踏まえるとやむを得なかったとも言える。現に,技術提携したからといって,すぐに注文が取れるわけがなかった。いろいろな引き合いを取ってきて見積もりをしても,すべて空振りに終わっていた。

神に祈ったダイカストマシン1号機

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