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 先日、早朝の東北新幹線に乗ってミサイル騒動真最中の東京から逃げ出し、桜前線がまだ到着していない仙台に行ってまいりました。かの地は空気が澄んでいるし、大都会の芋を洗うような人口密度もありません。本来であれば豊かな環境に身を委ね、落ち着いた時間を楽しむことが出来るはずなのですが、今回はあいにくバカンスの旅ではありません。我が子が向こうの学校へ進学することになったので、大量の荷物の運搬を兼ねた付添い人として同行したのです。

 彼はまだ16年に満たない首都での生活にとりあえずのピリオドを打ち、育った土地や親から離れてしまうことになるのですが、それに関してあまり懸念はないらしく、このように言うのです。「僕のことを誰も知らない所に住んでみたい。白紙の状態から、新しいスタートを切りたいんだ」。まぁ気持ちは分かるけど、それはたぶん理由の一部でしょうね。実は、うるさい親から距離を空けたい気持ちが強いのでは。まあ、それはそれで結構なことです。正直言うと、反抗期疲れの私にも、寂しい気持ちにホッとする気分が少しばかり混じっているのです。

アメリカには入学式はない

 そんなことで、東北地方の完璧な春空の下、仙台市郊外の体育館へ夫とともに、1000人くらいの親子たちが参加する入学式に臨みました。えらく長い演説のおかげでボーッとしていると、ふと自分が紺色制服や背広の海にぐるりと囲まれていることに気付きます。これこそ日本を代表する光景ですよね。

 入学式は通常、"entrance ceremony"と英訳します。しかし、私の母国のアメリカでは、これと合致する発想や習慣はあまりありません。それなのに、日本人はどうしてこれほど「入学式尊重」になったのでしょうか。振り返ってみると、保育園でさえびっくりするほど豪華な入園式をやっていた記憶があります。

 このような式は、日本に来るまで一度も経験したことがありませんでした。私たち「あっさり系」なアメリカ人は、結婚以外、物事を始める時に大きなイベントをやることはあまりないのです。学校の場合は、式なしで直接教室に向かいその場から学校生活が始まるというのが当然の光景です。会社に入るときも同じようなもの。お祝いなどなく、いきなり仕事です。

 日本では入学でこんなに大騒ぎをするのに、太平洋を隔てたら何もしない。なぜなのでしょう。あえてその理由を言えば、次のようになるのかもしれません。人生においては様々な始まりがあるけど、新しくスタートを切ったとしても必ずしも目的が達せられるとは限りません。成功するかどうかは個人の努力に属する問題なのですから。だから、私たちアメリカ人は「始め」を重視せず、結果だけにこだわる。だから、始まりを祝うことなく、その代わりに終わりを盛大に祝う傾向があるではないか。