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派手なドレスはダメ?

 日本の場合はどうでしょう。親たちが客席に座り、感動的な音楽が流れ、すべての生徒が統一された真新しい制服を着ている中に身を置けば、ある種の緊張感を誰もが感じることでしょう。見渡せば、みな同じ様子で誰も目立っている人はいません。これはあくまで、「個人的な活動の始まり」ではなく「集団生活の始まり」というメッセージを濃厚に含んだものだと思うのです。

 私たち外国人からすれば、日本にはかた苦しい風習やなじみにくい習慣が沢山あります。けれど、入学式でわが子の緊張した姿を見たときは、ちょっと感動してしまいました。慣れない風習への抵抗感というより、感謝の気持ちが湧いてきたのです。この心境にたどり着くまでにえらい年数がかかったわけですが・・・

 10年ほど前に、上の子の小学校の入学式に出席したときは、このような気持ちなどまったく湧いてはきませんでした。正直にいえば、式のことは何も覚えていません。唯一記憶に残っているのは、入学式の朝の慌ただしい準備のことでした。早朝から夫婦喧嘩をしたのです。「なぁにぃー、そんな格好で入学式に行くつもりか」と、夫に激しく叱れました。母国では、お祝いのときこそ、女性はファションセンスや格好よさを見せつけるべき、式はその格好の場面と考えるのです。

 だから、当然のごとく私は、ちょっと派手なドレスを着てその式に赴こうとしたのです。もちろん、派手な格好をすることで自分をアピールしようという意図もあります。「私は単なる母親や妻ではないのよ、一人前の女性なのよ」という気持ちですね。決してグループの一部ではないぞ、と主張したがることは個人主義のアメリカで育った人の癖かも知れません。でも事実、個人対個人の競争で生き残っていかなければならない社会では、そのような主張は常識なのです。

入学式の本当の意味

 そんな国で育った私が日本の風習に従うのはつらい経験でした。上の子の入学式のときも、あわてて洋服タンスをもう一回開け、数百人の中にとけ込むために最も地味な服に急いで着替えたものです。猛烈な不満を抱えながら。

 先日の入学式でも、かつての私のようにドレスを着込んだ方など一人もおらず、やっぱり出席者の格好はみな地味でした。日本の画一性をよく表しているなぁと思いつつも、今回はちょっと別の見方でこの光景を眺めることができるようにもなっていました。これからの3年間、私たちは同じ船に乗って行くのだなということを再認識したのです。この子たちは無事に卒業するまで、一つのチームなのです。一人ぼっちより、グループとして動いた方がどんなにか心強いことか。そんなことをしみじみと感じることができました。

 間違えないで下さい。私はまだ昔風の日本的な集団志向、画一主義に染まりきったわけでも頭で納得しているわけではありません。けれど、新たな船出は、誰にとっても恐ろしいことでしょう。それを暖かく迎え入れてもらい、共に苦しみを分かち合う仲間がいることを確認できれば、その恐さを乗り越え各人がより強くなれるかも。その結果、成功する確率が上がるのではと、そのことだけは認めたい気持ちになっているのです。