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技術者への敬意を忘れなかった銀行屋

 日本の半導体メーカーに対しても積極的なアプローチをした。日本の半導体メーカー各社の首脳を集めてAMAT主催の会議を開く。各社の戦略を聞くというインプット面での成果のほかに,AMATが業界の中心として存在していることを各社トップに知らしめるというアウトプット面での効果を狙ったものだ。

 余談になるが,1990年代後半の会議が印象に残っている。その会議で日本の大手半導体メーカー5社の経営幹部に投げかけられた質問は「設計のアメリカ,製造コスト力のアジアに対して,貴社が成功するための戦略は?」というものだった。誰一人として,明確に答えられる人はいなかった。あの場で戦略を語るわけにいかない諸般の事情もあったのかもしれないが,日本人としては恥じ入るばかりで,正直な話,気分が滅入った。

 その夜,モーガンたちを銀座のソニービルに連れて行った。素晴らしい製品の数々が並び,超高密度実装基板やチップの見える形での展示もあった。モーガンはうなった。「こんなすごいものを作れる国は世界中で日本だけだ。今は落ち込んでいるが,日本は必ず回復して世界を再びリードするだろう」。技術に対する敬意がこめられた,率直な言葉だった。

 AMATが成功した要因の一つは,創業者の技術や製品をベースにしたビジネスにすがるのではなく,優秀で独創性のある技術者をどんどん雇い入れた点である。結果,一流の技術者集団が多くのヒット商品を量産し続け,会社は潤った。後で知った話だがモーガンは技術系の人ではなく,銀行屋だったそうだ。1969年,AMATはエピタキシャル用ガスの会社として設立されたらしいが,すぐに経営不振に陥ったという。そんな折,ベンチャー金融から建て直しに派遣されてきたのが若き日のモーガンだったと聞く。技術屋でない彼は,常に技術者を尊敬し,優遇した。AMAT本社でも日本法人でも,歴代の社長や経営幹部には技術畑の出身者が多い。

 モーガンはまた,日本びいきだった。丹頂鶴の生態を見たいと言い出したモーガン夫婦を釧路まで案内したこともある。AMAT社内ではHoshin Strategy(方針戦略), Muri-Muda(無理・無駄),Kaizen(改善)といった日本の経営用語が氾濫していたし,信頼性技術やトヨタの製造技術など,日本から当事者を招いて勉強することもあった。Hoshin Strategyは単にStrategyと言う場合よりも上位の概念を示す言葉として,誇り高く使われていた。

 人種差別意識を持たない経営者の下,AMATは世界中の人材を要職に起用した。人事部長はアフリカ系アメリカ人,後任者は日本人だった。経営幹部が10人ほど集まると,イスラエル2,中国1,日本2,アルゼンチン2,インド1,アフリカ系アメリカ人1,白人のアメリカ人2といった構成になった。世界中どの地域でも市場シェアがほとんど変わらないというAMATの世界戦略は,モーガンの世界観なしには語れないだろう。
モーガンはその後,長くAMATの会長を務め,現在では名誉会長になっている。

 半導体業界に関して何か文章を書くとなると,今この厳しい状況ではどうしても「ここがダメ」「あれがマズかった」に終始しがちになる。事業や経営のレビューはなくてはならないものだし,経営がうまくいかないときはなおのことだが,あえて,よくやった人のよかったところを見て何か自分のものにできないか考えてみるのもいいのではないかと思った。国も立場も業種も異なる二人を取り上げた。彼らのエピソードの中で,読者の皆さんのヒントになるものがあればうれしい。