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図17

 鎌倉時代に続く南北朝時代を経て応仁の乱が勃発した室町時代になると、太刀より短い打刀(うちがたな)が流行するようになる。これが、今日一般に刀と呼ばれるもので、馬上での戦闘より歩兵戦に適したものになっている。この後の戦国時代になると、刀の需要は急拡大し、束刀(たばがたな)と呼ばれる大量生産品も登場する。

 「妖刀村正」で名高い村正(むらまさ)は、この時代の名工である。彼の作った刀によって家康の祖父である清康、父の広忠は殺害され、そして家康自身も村正で怪我をした。さらには息子信康が切腹の際に使った介錯刀も村正であった。そのことから、村正は「徳川家にたたる妖刀」とされ、家康に敵対した真田幸村などは、あえて村正を腰に戦場に向かったという。このような伝説が、歌舞伎や講談などの題材にもなり、もともと高かった村正の知名度はさらに上がっていった。

鋼に刃物としての命を吹き込む焼入れ。水槽の中に入れた瞬間、赤く焼けた刀身によって瞬時に水が沸騰して、水蒸気が立ち上る。
鋼に刃物としての命を吹き込む焼入れ。水槽の中に入れた瞬間、赤く焼けた刀身によって瞬時に水が沸騰して、水蒸気が立ち上る。

 この後の安土桃山時代から江戸初期にかけては、戦雲の濃さに比例して豪壮なものがもてはやされた。しかし1600年に関ヶ原の戦いが終結し、世は泰平へと向かっていく。およそこの時期を境に、刀に対するニーズや製鉄方法に大きな変化が起き、日本刀は一つの節目を迎える。それをもって、この時期以前の日本刀を「古刀(ことう)」、以降を「新刀(しんとう)」と呼ぶのが通例になった。

 日本刀を武器として使う機会がめっきり減った江戸中期には、近藤勇がその贋物を愛刀としていたという長曽祢虎徹(ながそねこてつ)などの名工が、華麗な刃文を持つ精緻な日本刀を作り出した。商人でも届け出を出せば携帯を許された脇差に贅をこらす風潮があらわれるのもこの時代である。さらに時代が下がると、富士山や菊の花をかたどった刃文まで登場し、日本刀はますます華美さを増していく。