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図16

 実際、北岡にも忘れられない失敗談がある。例えば有名な某日本画家が描いた海辺の風景画から「海が消えた話」。本紙の各所に汚れがあり、洗いを施したところ、海の部分を描いたブルーの絵の具が流れてしまったのである。しかし若い頃はそんな大失敗をしても大目にみてもらえたという。だが、いつまでもそういうわけにはいかない。

 さらに厄介なのは、うまく洗えればそれでいいということではないことだ。きれいに洗ったおかげで、作品の価値を下げてしまうこともあるのである。

どこまで染み抜きするか思案中の依頼品。
どこまで染み抜きするか思案中の依頼品。

 こんな話がある。ある趣味人が、何百万円もの大枚を払って、何百年もの間大事に使い継がれてきた名品の茶椀を入手した。さっそく使い、後で洗おうと流し場に置いておいたところ、家人がそれを見つけ、「何と茶渋だらけで汚いこと」と漂白剤に漬けてしまったのである。おかげで、茶碗は新品のようにすっかりキレイになってしまった。その変わり果てた姿を見て主人は落胆し、泣く泣く手放すことにした。しかし、数万円でしか売れなかったのだという。

 掛軸でも事情は変わらない。何百年も前の古色蒼然たる書画をすっかり真っ白に漂白してしまえば、その風格は消え、同時に商品価値も大きく下がってしまう。けれども近代の絵画であれば、むしろ新品のように染み一つなく仕上げたほうが、依頼主には喜ばれるだろう。ただ多くの場合、具体的にどこまできれいにするかなど、依頼主が細かく指定してくれはしない。後から「こんなに真っ白にされたらかなわんな」と言われるだけなのである。

図18

 では、どこまで洗い、どこまで古色や染みを残せばいいのか。それを適切に判断するのも表具師の仕事である。まずは本紙の内容や用途、古さ、美術的価値などを正確に把握する。そのうえで、その掛軸はどのような状態になれば最も魅力を引き出せるのかを想定し、自身の経験と技でもってその状態を実現するのである。

 それができて初めて「あそこに任せたら、ごちゃごちゃ言わんでもあんじょうやってくれる」と言ってもらえるようになる。これも、表具師が信用を勝ち得るための、「技以外のもの」の一つなのである。
(文中敬称略)