いわゆる順風満帆というのでしょうか、入社以来、ずうっと日の当たる部署を歩いてきたC君、初めての地方勤務ですヨ。ずっと本社にいて、誰が見ても将来の幹部候補生。それが地方に転勤になる、それも、将来を見据えての人事。アタシにはそう見えたし、C君を知っているシトたちも、これもキャリアを積むいい経験、そう思っていますワナ。なのに、当の本人が落ち込んでいるんです。
「おいおい、どうしたんだい。地方に出るのも悪くないぜ。楽しむくらいの気持で行って来ればイイじゃあないか」。そう言うと、「次郎さん、僕、そうは思わないんです。今度の異動、外されたんじゃあないかと…」。C君、どうやら、コースから外されたんじゃないかと、心配のようですヨ。
よく考えると、転勤てェもんは、サラリーマンにとって、踏み絵みたいなもんですナ。気持ち良く行くか、不満な気持で行くか、会社の誰が決めるか知らないけれど(ホントは知っていますヨ、でも、それを詮索しちゃあいけません)、それをどう受け止めるか、それが大切てェことじゃありませんかねェ。
そうそう、昔の話ですが、チョット失敗というか、立ち上げたプロジェクトがうまくいかなかった御仁がおりましてネ。そのシト、転勤になったんです。いえ、左遷なんてェことじゃなく、上の意向で、少しアタマを冷やさせようと、ある意味では、温情的な異動だったんですが、そのシト、たいそう落ち込んで、見ているアタシたちもヒヤヒヤ。そんなことを思い出しましたヨ。
そのシト、今のC君と同じで、当時はずっと日の当たる道を歩いていた、いわゆるエリート、優秀なシトでしたヨ。それが、担当したプロジェクトが思うようにいかず、まァ、早めに終息したので、会社の損害というか実害は、思うほど大きくはありませんでした。逆に言えば、それで済んだてェことですから、ある意味、お手柄かもしれません。ですが、そのシト、入社して以来、初めての挫折というか足踏みですから、そりゃァ、ガックリするのも分かりますワナ。
「次郎さんよォ、おれ、これでおしまいだァ。つまずいちまって、これでもう上にはいけねェよなァ。今までは良かったのに、これで、お先が真っ暗。まあ、地方に行って、のんびりやるサ」。よほどガッカリしたんでしょうナ、開き直りと、諦め、ある種ふて腐れたような気持ちになったのかもしれません。そこでアタシ言ってやったんです。「何を言ってやんでェ、それじゃァ、負け犬じゃあねェか。ええ、少しくらいつまずいたって、挽回すリャアいいんだよ。大体、順風満帆なんてェやつに限って、大事な時に、大失敗をやらかすんだ。だから、今のうちにやってしまえば良いてェことサ。ナァ、そうだろうよ」。「キャリアにも、プラスばっかりじゃあなくて、マイナスのキャリア、そういうのもあるてェことサ」。思わず、そう言ったんですヨ。
そうしたら、そのシト、「そ、そうだよナァ。その通りだよ。おれ、今までうまく来たこと自体、正直に言うと、いつも心配してたのさ。いつか、つまずく、それが怖くて、逆に空威張り。気付いてはいたんだが、そうか、マイナスのキャリアか…」。何か、明るい顔になったんです。「ありがとうヨ、次郎さん。おれ、地方、行ってくるよ! しばらく勉強して、ちゃんと帰ってくるからナァ、そのときは次郎さん、よろしく。マイナスのキャリア、肝に銘じたヨ!」。
転勤なんざァ、サラリーマンの人生模様。そうは言っても、そこで繰り返される悲喜こもごも。それを、プラスのキャリアばっかりで見ちゃあいけませんヤネ。マイナスのキャリア、時として、倍返しのプラスになるてェことも、あるんですヨ。さてさて、いつもの赤提灯。C君の話題になりました。
「そうか、C君、転勤かァ。まあ、このまま一直線で行くのもいいけど、階段を登り続けるてェわけにはいかない時もある。それを、上が考えているのかも知れねえナァ。今度の転勤、彼にとっては、キャリアの一つと思えばいいってことサ」。「大体、キャリアなんてェもんは、実はプラスばっかりじゃァないんだヨ。時には、つまずいたり、またある時には立ち止まったり、そんな、一見、マイナスのようなこともキャリアのうちてェことなんだよナァ」。
何だかどこかで聞いた話ですが、お局も、「そうよ、次郎さん、部長の言う通り。サラリーマンなんて、いい時ばっかりなんて、あるわけないじゃない。山あり谷あり、その、谷のところで何を学ぶのか、そこが肝心よォ」。なるほど、お局もうまいことを言いますヨ。
「ナァ、次郎さんよ、転勤なんざァ、勤め人稼業のほんの一瞬。それをいちいち、滑った転んだと騒いでいたんじゃァ、いくつ身体があっても持たないよナァ。プラスのキャリアだけじゃなくて、マイナスのキャリアに意味があるてェこと、見逃しちゃァいけねェよ!」。おいおい部長、それってアタシが昔、アンタに言った話だろうヨ。しかも、アタシに説教かい? でも、部長が昔のことを忘れて、こんな風に言えるてェコト自体、マイナスがプラスになった、そういうことですワナ。
飲むほどに酔うほどに、人生いろいろ、昔話に花が咲きました。部長もお局も、そしてアタシも、まさに、滑ったり転んだり、いろいろありましたが、それをプラスにするてェことが、大切なんですナ。今夜はいい気分。お酒も美味しく、クイクイと進みます。なのに…。
「そう言えば、次郎さんって、つまずいたり滑ったりしたこと、ないわよねェ」。しかも…。「あっ、そうか、もともと、低空飛行みたいなものだから、これ以上マイナスになることなんてなかった、そういうことかしら」。な、なんてェことを、お局。そりゃあ、あんまりだァ!