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タイトル

 1985年9月、米Motorola社と日立製作所は、日立が開発したばかりのZTATマイコンに関する協議を始めた。CMOSマイコンのセカンド・ソースに関する問題が、ようやく解決した直後のことである。東京で行われた実務レベルの会談で、牧本らはZTATマイコンでも協力関係を築きたいとMotorola社に伝えた。つまりは、ZTATマイコンをセカンド・ソースしてほしいという要求である。Motorola社の担当者もこれに同調する姿勢を見せた。ところが、セカンド・ソースはすんなりとは決まらなかった。

 これには、両社の間の特許契約が絡んでいた。この時期、Motorola社と日立はZTATマイコンのセカンド・ソースと並行して、半導体関連特許の契約更改に関する交渉を進めていた。問題は、Motorola社が「MFP(Motorola Family Product)」と呼ぶ自社アーキテクチャに基づくマイコン群に関して、セカンド・ソースする製品とそうでない製品の特許の扱いを区別していたことだった。Motorola社は、セカンド・ソースする製品は関連特許を他社にライセンス供与するが、セカンド・ソースしない製品に関してはライセンス供与をしない、というルールを設けていたのである。このルールに基づくと、Motorola社がZTATマイコンのセカンド・ソースを正式に決めるまで、日立はMotorola社から関連特許のライセンス供与を受けられない、ということになるのだ。ZTATマイコンはMotorola社のアーキテクチャをベースとしており、関連特許のライセンス供与を受けることは欠かせない課題だった。

 両社は1986年1月12日から4日間にわたって行れた交渉を通じて、特許契約更改に関しては合意に達した。だがZTATマイコンのセカンド・ソースについては合意に至らず、別個に協議を続けることになった。

 交渉は長引いていたが、牧本はMotorola社がZTATマイコンをセカンド・ソースすることに疑念を抱いていなかった。Motorola社の実務担当者から高い評価を得ていたからだ。当時のMotorola社日本法人社長は、ZTATマイコンを「(高い革新性を備えた)“ダイナマイト・デバイス”だと褒めちぎった」(牧本)。この頃、半導体市場は好況だった1984年から一転、大不況に突入していた。Motorola社日本法人が管轄する同社会津工場(当時)では受注が激減し、稼働率が落ち込んでいた。ZTATマイコンは「稼働率を高めるための格好の製品と映ったのではないか」(牧本)。

 ところが、1985年9月の会談から8カ月を経た1986年5月になって、Motorola本社から驚くような知らせが牧本のもとに届く。「ZTATマイコンを手掛けるだけのリソースが社内にないため、セカンド・ソースを断念したい」というのだ。続く同年6月には追い打ちをかけるかのように、「ZTATマイコンのセカンド・ソースはできないので、関連特許を供与できない。日立側ではこの製品をWind Down(ワインド・ダウン)してもらいたい」という要求が届いた。Wind Downなどという言葉を耳にするのは初めてだ。牧本が英和辞典を引いてみると「取っ手を回して…を降ろす」とある。つまりは「顧客への供給を止めろ」という要求だった。