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タイトル
 1986年12月のトップ会談をもって米Motorola社との関係が完全に断絶する以前から、牧本ら日立製作所のマイコン事業担当者は、いずれは独自アーキテクチャの路線を歩むべきだという信念を持っていた。1984年9月に山中湖畔のホテルで開いた「マイコン戦略レビュー会議」では、マイコンのマーケティング担当部長だった初鹿野凱一らが中心となって、日立のマイコン事業戦略について議論を重ねた。その場でも、独自アーキテクチャを持つことの重要性を全社の意思として確認し合った。

 1986年10月、日立は社外に対して「マイコン独立宣言」を行う。内容は、「Motorola社アーキテクチャの既存製品のサポートは今後も続けるが、新製品はすべて日立のオリジナル品に変えていく」というものだ。発表の少し前から、牧本が率いる武蔵工場では独自アーキテクチャの8ビット・マイコン「H8」の開発に取り掛かっていた。同工場の精鋭に加えて中央研究所など他部門からも支援を得て、半導体事業の最重要プロジェクトとして開発は進められた。

 1987年2月に牧本が武蔵工場長を解任され、マイコン事業から離れた後も、H8の開発は急ピッチで進んだ。製品発表にこぎつけたのは、開発に着手してから2年後の1988年6月のこと。H8は組み込み市場を中心に好評を博し、デザイン・ウィンを順調に獲得していった。H8は当然、かつての日立の盟友だったMotorola社のマイコンとも競合する。優勢だったのはH8。「ある日本の大手カメラ・メーカーのデザイン・ウィンを競った際には、H8が勝利を収めた」(牧本)。

 こうして独自アーキテクチャのマイコンがようやく離陸してから間もなく、日立にとって予想外の出来事が起きる。1989年1月、Motorola社が、本社のある米国イリノイ州の地方裁判所にH8の販売差し止めを求めて提訴したのだ。「H8はMotorola社の特許を侵害している」という主張だった。牧本は後にこの際のドラマを、マイコン事業の主力メンバーだった木原利昌から後日談として聞かされた。それは1989年1月18日の出来事である――。