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輸入品頼りだった日本の人工呼吸器

 メトランを創業したフック氏は、ベトナムの高校を卒業した1968年6月に来日し、まず日本語などを学んで日本の大学への留学に備えた。1969年4月に東海大学に入学し工業化学を学び始めた。工業化学を学んだのは、ベトナムの裕福な資産家の息子として育ったフック氏は当時、帰国後にヤシ油を原料にした洗剤メーカーを起業するとの考えを持っていたからだった。ベトナムの仏教組織から奨学金をもらい、東海大での勉学に励んだ。

 1974年3月に東海大を卒業したフック氏は、医療機器メーカーの泉工医科工業(東京都文京区)に、まずは留学生の研修生として、3年後には正社員として採用され、医療機器事業の仕事に打ち込んだ。

 製品企画部門に配属された時に、人工呼吸器という医療機器に遭遇する。人工呼吸器は、万一、その機能が停止すれば、患者の死に直結する機器だけに、このハイリスクを恐れて、日本の医療機器メーカーは参入していなかった。この分野は、輸入品に頼っていた。

 フック氏は、人工呼吸器に対する病院での現場ニーズなどを求めて、各病院の医師などの関係者に聞いて回った。その過程で、人工呼吸器の学術文献を紹介され、しっかりと読み込んで学術の知識なども学んだ。当時、国立小児病院麻酔科に勤務していた医師の宮坂勝之氏(現在、医聖路加看護大学教授)から、肺に小さな圧力で高頻度で酸素などを送る高頻度振動換気タイプ(HFO)技術についての学術情報を教えてもらった。さらに宮坂氏から、このHFO技術の研究の権威だったカナダのトロント大学教授のチャーリー・ブライアン(Charles Bryan)氏を紹介してもらうなどの支援を受けた。

公知だが深掘りされていなかった高頻度振動換気技術を追究

 人工呼吸器の病院でのニーズ調査と文献などによる学術情報を精査したフック氏は、HFO技術の技術面での優位性を確信し、1分間に900回も、極低圧で酸素ガスなどを送るHFOタイプの人工呼吸器のプロトタイプをなんとかつくり上げた。ピストンを上下に微小な振幅で精密に動かすことで、極低圧で高頻度の圧力変動をつくり出す仕組みだった。HFO技術は、欧米などで既に、ある程度知られた方式だったが、当時はこの方式の実用化に真剣に取り組む個人や会社はなかったようだ。

 当時の泉工医科工業社長の青木利三郎氏に、人工呼吸器のプロトタイプを作製したことを伝えると、「そのプロトタイプを各病院の医師などに見せて、使い勝手を評価してもらい、その事業性などを検討するように」と指示された。最終的には、泉工医科工業の既存製品の販路や病院などの人脈などと合わないことから、事業化は見送られることとなった。

 フック氏は、医療機器の技術者としての研鑚を続け、独自の技術・スキルを磨く努力を継続した。この結果、日本の会社の年功序列などの人事制度などに不満を抱くようになった。独自の能力を持つ社員でも、すぐに開発リーダーにはなれない雰囲気だったからだ。

 1984年に独立することを決意し退社し、1984年にメトランを創業した。会社を、JR神田駅から近い東京都千代田区に立ち上げた。奥さんが経理などを担当する、役員・社員が2人だけの会社だった。

 メトランを創業したものの、その会社の事業計画は未検討・未完成だった。実は、泉工医科工業ともう1社の合計2社の技術顧問を頼まれ、この収入があったために「多少、ゆっくりと事業計画を考える余裕があった」という。