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独自技術と現場ニーズを付き合わせて判断する姿勢を学ぶ

 フック氏が医療機器開発を始める前に話を戻す。1974年3月に東海大を卒業した同氏は、将来、ベトナムで化学企業を創業したと考えていたため、まずは日本の化学メーカーへの就職を目指した。ところが1974年当時は、1973年に起こった第一次石油ショックの影響で日本の化学業界は不振を極め、新人にとって就職が難しい時代だった。

 東海大の恩師などに相談したところ、ちょうど東海大が医学部や大学病院の設立を図っている最中だったことから、医療機器メーカーの泉工医科工業(東京都文京区)での研修を奨められた。泉工医科工業側も、大学を卒業した直後のフック氏の研修を受け入れた。これが医療機器事業と関わる契機になった。

 フック氏は当時の海外技術者研修協会〔AOTS、現在のアジア学生文化協会(ABK)〕から研修生として2年間、泉工医科工業に派遣され、各種の業務を学んだ。この研修中に、金属の穴開け加工からプラスチックの高周波溶着までと、多彩な加工法などを学んだ。「切削工具の刃先の研ぎ方などのスキルも学んだ」という。帰国後のことを考え、どん欲に仕事に役立つことを学び続けた。将来、事業を起こし、その企業を率いるとの意志があったからだ。

 泉工医科工業では、製造部門から営業部門までと多彩な業務を学ばせてもらった。2年間の研修を受けてる最中に、1975年にベトナム戦争が終戦し、ベトナムは社会主義国家になった。この結果、裕福な資産家の出身だったフック氏の帰国が難しくなった。このため、研修生としての受け入れを、もう1年間、特別に延長してもらい、業務のスキルを高めた。

 フック氏は、その業務に対する熱意や努力が認められ、1977年4月に泉工医科工業の正社員に採用され、各大学の医学部や病院などに熱心に通った。名刺を渡すと「日本企業に勤める外国人として印象に残り、その仕事の熱心さが伝わったようだ」と語る。こうした医学部の医師などの人脈が後日、生きることになる。

 泉工医科工業は、アイデアマンだったフック氏の能力を生かすために、新製品の企画を担当する部門に配属した。この時に、人工呼吸器に対するニーズを知る。人工呼吸器の不具合は死に直結する。そうしたハイリスクを恐れて、日本の医療機器メーカーは参入していなかった。

 フック氏は独自の技術シーズと医療現場のニーズを付き合わせて実用化の可能性を考え、可能と判断すれば、そのリスクを取る姿勢を確立していた。いずれ企業を創業するという意志が、その姿勢を支えたようだ。