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1960年代に米国と英国で開発されたパケット交換

 パケット交換による通信方式は、米Rand Corporation(ランド研究所)のPaul Baran氏と英国・国立物理学研究所のDonald Watts Davies氏が、1960年代に独立に考案した。「パケット」という言葉を用いたのはDavies氏である。その意味で、「パケット交換」の名付け親はDavies氏だ。

 核攻撃によって一部が破壊されても、全体としては機能するような軍用通信ネットワーク、この研究を1960年ごろ、米空軍がRand Corporationに委託する [脇英世、『インターネットを創った人たち』、青土社、2003年、 p.124]。パケット交換を用いる分散型デジタル通信ネットワーク、これが上記の委託研究に対するBaran氏の回答である。階層構成の交換機ネットワークと違い、分散型のパケット交換ネットワークは、一部が破壊されても全体としては機能する。

 Davies氏の研究のきっかけは、TSS(タイムシェアリング・システム)と電話網のミスマッチについての話を聞いたことだという[脇、同上、 p.113]。データ通信の品質改善が同氏の研究目的だった。目的は違っていたが、全体としては、Davies氏とBaran氏は、ほとんど同じ考えに到達する。

 米国防総省の研究支援機関ARPA(Advanced Research Project Agency)は、研究助成をしている研究機関をつなぐコンピュータ・ネットワーク(ARPANET、ARPA Network)の通信方式にとして、パケット交換を採用する。1969年に稼働を開始したこのARPANETは、インターネットの前身の一つである。ARPANETはまた、ルーターの前身を導入、「TCP/IP」を標準プロトコル (通信規約) に選んだ。これらはすべて、現在のインターネットに引き継がれている。

通信自由化後に米国では新興企業が続々と誕生

 通信自由化のインパクトを確認しておこう。米国では電話事業は民営である。しかし事実上の独占が長く続いていた。通信自由化は、独占禁止の観点から実施される。1984年1月1日、AT&T社の本体は長距離電話会社となり、同社の製造部門だったWestern Electric(WE)社は米AT&T Technologies社と改称され、Bell Laboratories(ベル研究所)をその傘下におく。地域電話部門は8社に分割された。

 その後のベル研究所は、所属を何度も変えつつ、かつてのような巨大企業研究所ではなくなっていく。これをもって「通信自由化の失敗」の象徴とする声は絶えない。しかし米国の電子情報通信産業全体は、新興企業群によって、自由化後も活気がある。新興企業のほとんどは中央研究所を持っていない。大企業に垂直統合された中央研究所の時代が終わろうとしていたとき[リチャード・S・ローゼンブルームほか編(西村吉雄訳)、『中央研究所の時代の終焉』、日経BP社、1998年]、まさにそのときに、ベル研究所は「終わり」へ向かって歩みを進めていった。そう解釈することもできるだろう。

 分割後のAT&T社は情報処理への進出が可能になる。逆に米IBM社は通信事業に乗り出せるようになった。しかしその後の両社の存在感は、かつてほどではない。通信自由化に加え、携帯電話やインターネットの大波が押し寄せた環境には、伝統的巨大企業の活躍の余地は、あまりなかったようだ。

 米国では次々に起業する新興ベンチャー企業が、自由化された電子情報通信市場を牽引した。Microsoft社、Apple社、Cisco Systems社、Qualcomm社、Yahoo!社、Google社、Facebook社、などなど。これらはみな、自由化後に活躍の場を見いだした。これらの新興企業に活躍の余地を創りだしたこと、これが通信自由化の功績であり、狙いでもあった。狙いは当たったと言うべきだろう。