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米国半導体業界は日本製メモリの価格をダンピングとして提訴

 先を急ぎすぎた。1980年代に戻ろう。日米貿易摩擦は鉄鋼やカラーテレビなどで、1980年代以前から始まっている。けれども先に述べた米国の政策転換以後、摩擦が激化する。日米半導体貿易摩擦は、まさに、そのときに起こった。

 1985年、米国の半導体工業会(SIA= Semiconductor Industry Association)は、日本を米国通商代表部 (USTR) に提訴する。「日本の半導体産業は、日本国内の閉鎖的市場構造を背景に、過大な設備投資を行い、安値輸出をして米半導体産業に被害を与えている」とした。要求は、日本国内における米国系シェアの上昇と、ダンピング防止のための諸措置、である。また同じ1985年に、米国半導体メーカーは、日本のメモリ輸出価格をダンピングとし、商務省に提訴した。

 日本製品の高品質は「不良品を出さないように製造工程を工夫する」ことによっている(それはDeming氏の教えだ)。そうすると生産性も上がる。だから安くできる。これが日本側の主張だった。しかし米国側は品質と生産性を対立概念とし、高品質の日本製品の価格をダンピングとする主張を譲らない。これらを受け、1986年9月に日米半導体協定が締結される。

価格監視制度と円高が日本製DRAMを高価格に誘導

 日米半導体協定は価格監視制度 (Fair Market Value) を導入した。それぞれの時点で、量産規模に応じた製造コストに適正な利潤をのせる。こうして決めた適正価格以下で販売してはいけない、とする。これが価格を下支えし、結果として日本企業のメモリ・ビジネスは大いに儲かったはずだ。

 同時に韓国の半導体メーカーがメモリ市場に参入するのを助けた。価格監視は韓国製品には適用されなかったからである。韓国は日米半導体協定の受益者だった [伊丹ほか、『日本の半導体産業 なぜ「三つの逆転」は起こったか』、NTT出版、1995年、p.22]。

 ただし、日本製DRAMが韓国製品に比べて高価になった原因は、ほかにもある。一つは円高である。1985年の「プラザ合意」以後の3年間で、1米ドル=240円から120円にまで、円高が進んだ。日本の集積回路輸出は1985年からの3年間は減少する(図2)。この時期の輸出に円高の影響があったことは確かだろう。

 けれども円高の影響を過大にみるべきではない。同じ図2に見るように、1985年から3年間の円高のときを除けば、集積回路輸出と為替レートに関係があるようには見えない。テレビとVTRの輸出は1985年以後、回復しない。これも円高とは関係がない。NEC、日立製作所、エルピーダメモリの営業利益率と為替レートに相関が見られないというデータもある [湯之上、『「電機・半導体」大崩壊の教訓』、日本文芸社、2012年、p.87]。