「身の丈を超えた目標」の意義を体得した高校生時代
私は、1960年に仙台第二高等学校に入学した。同校は内部に補習科(浪人生を受け入れる教室)を持つ進学校であり、毎年のように仙台第一高等学校と大学合格数を競っていた。高校2年生にもなると皆は勉学に励むが、私はクラブ活動や趣味ばかりをして勉強せず、補習科組100人を含めた350人中325番あたりをさまよう成績だった。

高校3年生になった時、そんな私を心配した母・シズエが東北大学の学生を家庭教師につけてくれた。進路について家庭教師と交わした以下のような会話が記憶にある。
家庭教師:君はどこへ行きたいのかね?
私:模型工作やラジオ組立が好きなので本当は東北大学の工学部に行きたいが、今の成績なので教育学部か農学部を目指そうと思います。
家庭教師:ばかものっ! 行きたいところを目指せ!
数秒間の葛藤の末、私は「よし! やろう!」と決心した。
父母にその旨を告げると、母はもちろん父・誠市もとても喜んだ。父は「おまえがその気になるなら、下宿費が多く掛かろうが東京大学でも行かせてやるぞ」と言った。
父は気仙沼の尋常小学校に通っていた時代に育児放棄のような扱いを受け、親類宅を回って物乞いをしたり墓場の供え物を口にしたりして、小学校だけは卒業した。文字がほとんど書けなかった父は仙台高等裁判所の給仕職(お茶くみ)を得た後、能力を買われて主任書記官にまで上り詰めた。ある時、所内の懇親会で若い判事に無学歴を笑われ、悔し涙で顔をくしゃくしゃにして泥酔して帰宅したことがあった。その悔しさを晴らすことを息子の私に託したかったようだ。
父は、62歳で司法書士の資格を取って独立した。裁判所に長年勤めた場合は司法書士試験が簡略化されるのだが、父はそうした優遇を嫌い、あえて一般のコースで受験して合格した。父は面倒見が良く、誰からも好かれ頼りにされる人望があったので、70歳の時に勲四等瑞宝章を受章したが、皇居で開催される秋の叙勲の1週間前に亡くなった。