「先人の知識に自分の知識を上乗せする」東洋工業新人時代
もちろん、就職先は1967年に世界初のRE量産車「コスモスポーツ」を世に送り出した東洋工業に決めた。私と同時期に東洋工業に入社した技術系新入社員の60人中40人ぐらいは、私と同じくREに魅せられて全国津々浦々からやってきていた。しかし、RE研究部への配属枠は6人。「RE研究部に配属されなかったら会社を辞める」と人事部を脅迫する新入社員も少なくなかった。

私もその一人だったが、3カ月間の現場実習期間中に考えが変わった。実習後半の人事部面接で「この3カ月、あちこちの現場に行ったがどの職場も仕事は面白いことが分かったので、配属先はどこでもいいです」と答えた。「会社を辞める」と叫んだ者はRE研究部に配属されず、私は配属された。思い切りの良さが人事部の好感を得たようだ。
REは、RE研究部の山本健一部長が四十七士を率いて“悪魔の爪痕・チャターマーク”や“カチカチ山の狸のオイル消費”など山積する問題を悪戦苦闘の末に克服して実用化にこぎ着けた。この話はNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」で紹介されているので、有名だろう。
私が配属された頃のRE研究部は既に250人ぐらいの大所帯であり、山本部長は“雲上人”だった。新入社員との懇談も1回だけである。周囲の話では、非常に頭の切れるカリスマであり、そのカリスマ性にほれ込む社員もいれば、人の話を聞かないで結論を出してしまうところを厭う社員もいたようだ。