独創的な模倣戦略
同様に高度成長期の経営が「キャッチアップ」「ものまね」「模倣」だったからといって、そこに経営ビジョンや経営判断がなかったわけではない。キャッチアップ時代の経営者は、むしろ最近の経営者よりも「今っぽい経営」をしていた。
忘れてはいけないのは、戦前の幸之助さんは天才的な発明家だったということだ。有名な二股ソケットをはじめ、彼は自分で創意工夫し発明した。これら、世に先駆けた製品で松下電器を起業したのである。戦争中には、軍の依頼で木製の飛行機まで開発したほどだった。
その幸之助さんが、発明家から「まねに徹する」という発想に変わった背景には、米国視察のショックがあった。敗戦で大きな負債を抱えた幸之助さんは、失意の中で3カ月間、米国を視察して回った。そのとき、日米の差に愕然(がくぜん)としたという。その差を埋めるには、とことん学ぶことが大切だという結論に至ったのだ。
先生として選んだのは、オランダのフィリップスだった。同社と提携して共同出資(松下70%、フィリップス30%)の子会社「松下電子工業」を設立した。これは、幸之助さんの人生最大の決断だったに違いない。何せ、松下電器の資本金が5億円だったのに対し、松下電子工業は6億6千万円だったのだから。当時の通商産業省は「松下は親より大きな子を産んだ」とかなり心配したほどだった。
この時代に私は定期採用の技術者として松下電器に入社したのだが、幸之助さんは私たちにいつも「君たちは技術屋さんで、いろいろとやりたいことはあるだろうけれど、ここはとことん学ぼう」と言っていた。
実際、1956年に大阪の高槻に完成した工場は、ここまでするかというほどに徹底してフィリップスの模倣だった。建屋から中のレイアウトまで、すべて当時のフィリップスの最先端工場の通りなのである。技術者の仕事は、まずはフィリップスにもらった設計図を日本語に翻訳することだった。東芝や日立は、同じ分野でGEやRCAなどの米国メーカーと提携していたが、松下電器ほどまねを徹底していたかといえば、そうではなかっただろう。
例えば、「よその会社もカラーテレビを作るから、ウチも作ろう」となったら、幸之助さんが決断して号令をかける。そうすると、みんなが動いた。松下電器中の優秀な技術者を集めて、カラーテレビを開発してしまうのである。
次はVTRとなったら、今度はそこに優秀な技術者がまた集合する。社内でほかの製品を作っている部署は放っておかれるから、「このままではまずい」と思って発奮する。社内中のリソースをかき集めるさまは、今で言えば「選択と集中」である。競合メーカーは、そこまで集中していないから、なかなか松下電器の製品には勝てない。当時、既に大企業だった東芝や日立と渡り合って、肩を並べるまでに成長できたのは、そうした経営者の徹底ぶりがあったのである。