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分からないなら会社をつぶす

 幸之助さんの模倣の徹底ぶりは人材の選び方にも現れた。模倣を徹底させるために最も有効な人材を工場のボスに据えた。幸之助さんの右腕で、後に松下電子工業の社長を務めた三由清二さん(故人)である。

 三由さんは、最近の言い方でいえば「異端の人」だった。工場では「黙ってインストラクション通りにやったらいい」と、技術者から机を取り上げる。「机に座っているとろくなことを考えない。生産ラインから外れたやつがいたらぶん殴る」と言って、工場を歩いて回る。

 言葉だけでなく、本当に殴りかかるのである。あるとき三由さんが労働組合の幹部を殴って大問題になったことがあった。それも1発ではなく、2発3発殴ったらしい。「すわストライキか」ということになった。

 殴るキッカケは、工場の交代制勤務導入にかかわることだった。当時の主力商品は真空管だったのだが、いくら作っても生産が追いつかず、ものが足りない。高槻の工場には、多額の投資をしているのだからフル回転させたいというわけで、組合に交代制を提案したのだが、組合から鼻であしらわれてしまう。

 それも仕方がない。今となっては当たり前だが、昭和30年代の日本には、まだ交代制勤務という概念が浸透していなかった。だから、とにかく「残業してくれ、残業してくれ」と残業に付加賃金をつけてお願いした。ものすごい残業時間に組合側が「もうこれ以上できません」と言い始めた。これが、三由さんが組合幹部を殴る引き金になった。

 組合側が「ストライキだ」と騒ぎ立てると、幸之助さんが出てきた。幸之助さんは、こういうときに「殴ったこと」に対して決して怒らない。一方で組合に「工場ともなれば、経営者と職員は親子の関係なんだ。ときには手が出ることもある。我慢せい」と説明する。もちろん、組合は「そんな話と違う。ストや」と騒ぐ。

 幸之助さんのすごいところは、そのときにこう言い放ったことだろう。「分かった。君たちがそう言うのだったら、私はこの会社には将来がないと思うからつぶす」と。

 実際は、フィリップスが30%の資本をもっているのだから、簡単につぶせるはずがない。ところが「つぶす」という。しかも、「親子がいがみ合うような家は将来性がない。この時点でつぶした方がいい」という論理である。そこまで言われて組合側はさすがに折れた。

 恐らく、部下に手を出すような人物は、ほかの企業では部門の長も勤まらなかっただろう。その三由さんは71年には社長に就任し、松下電子工業を高収益企業に育て上げた。逆に言えば、東芝や日立の取締役には、模倣をテーゼとし徹底する松下の取締役は勤まらなかったに違いない。人を殴るのがいいことだとは思わないが、当時は非常にユニークな経営が存在していたのである。