PR

精神の袋小路

 物理学者としてのボルツマンの功績は、物質の温度や圧力というマクロな現象を分子や原子といったミクロの運動法則から導くとともに、「10℃の水と90℃の湯を混ぜると50℃の湯ができるのに、50℃の湯から10℃の水と90℃の湯を作れないのはなぜか」を解き明かしたことにある。統計力学は、いわばミクロの法則とマクロの法則を統合したところに誕生した。

 当時、ヨーロッパには二つの対立する学派があった。ボルツマンのように原子の存在を前提に自然現象を説明する原子論と、エネルギーの流れと変換によって自然現象を説明しようとするエネルギー論。19世紀に科学の中心を担っていたドイツ語圏ではエネルギー論者が圧倒的な優勢を誇っていた。

 原子論を展開して統計力学を打ち立てたボルツマンは、ヴィルヘルム・オストヴァルトらエネルギー論者からの猛烈な批判と攻撃に遭った。さらに反原子論者のエルンスト・マッハ(Ernst Mach、1838~1916年)が、「世界は我々の五感で感じられるものだけから成る」という極端な実証主義の立場からボルツマン批判の急先鋒となった。電子顕微鏡のない時代、原子を直接見ることなど不可能だ。論争に出口はなかった。

 エネルギー論者から集中砲火を浴びたボルツマンは、孤立無援の状態でもともとの鬱気質を悪化させた。母と10歳の長男を亡くしてからは、鬱状態がさらに悪化した。

 1906年、ボルツマンは妻と娘と共に療養のためドゥイーノを訪れた。海水浴から戻った15歳の娘はホテルの部屋で首をつって息絶えた父親を発見する。学問上の孤立感が彼を精神の袋小路に追い込んだことは間違いない。

 前年の1905年にはアインシュタインがブラウン運動に関する論文を発表して分子の実在を理論的に証明していた。1909年にはジャン・ペランがブラウン運動に関する実験を通して原子の存在を実証し、エネルギー論は科学の現場から退場することになる。ボルツマンがもう少し生き長らえていたら、旅先で自死を選ぶことはなかっただろう。

 100年も前のことだ。ボルツマン家族が宿泊したホテルはもうない。インフォメーションのおばあさんは「今は学校になって日本人の生徒もいるよ」と教えてくれた。そこはアドリア海に臨む崖の上で、現在はアドリアティック・カレッジ(Collegio del Mondo Unito dell’Adriatico)が建っていた。

ボルツマンが家族と最後に訪れたドゥイーノの海岸。オレンジの屋根の建物(アドリアティック・カレッジ)の場所に、かつてホテルがあり、このホテルでボルツマンは縊死した。
[画像のクリックで拡大表示]