PR

長岡半太郎という弟子

 ボルツマンの故郷ウィーンを訪れ、彼が学位を取るとともに日本からの留学生、長岡半太郎(1865~1950年)を教えたウィーン大学に行くと、中庭の回廊に、ウィーン大学が輩出した偉人たちの像が延々と並べられ、ひときわ大きいボルツマンの像もその一角にある。

ウィーン大学の中庭の回廊にあるボルツマンの彫像
[画像のクリックで拡大表示]

 彼は偉大な科学者であると同時に偉大な教育者だった。人間味あふれる人物として学生たちに優しく接し、講義には完璧なシナリオをもって臨んだ。

 日本の物理学の基礎を築いた長岡半太郎は、1893年に母校の東京大学で理学博士を得たのちにベルリンに留学したものの、どうしてもボルツマンに学びたくて翌1894年にミュンヘンに移動。ほどなくボルツマンがウィーン大学に招かれたので、彼の後を追ってウィーンに移り、ベルリンに戻るまでの約1年間をボルツマンの下で過ごしている。

 長岡がボルツマンに師事した頃、そこでは原子論者とエネルギー論者との激しい論争が繰り広げられていた。長岡は、両者の根本を理解した上で、原子論の立場の優位性を見抜き、ボルツマンの統計力学を吸収した。ボルツマンも長岡をはっきりと覚えていた。

 1896年に帰国後、長岡は世界で初めて、原子核を中心に電子がその周りを回る「原子の土星モデル」を提唱した。初代大阪帝国大学総長となり、1937年には初代文化勲章を受章した。長岡の弟子に夏目漱石門下としても知られる寺田寅彦(1878~1935年)や日本に量子力学の拠点を作った仁科芳雄(1890~1951年)がいる。教師の中の教師たるボルツマンは間接的ながら日本の物理学の始祖ということになる。