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精神を病んだ晩年

 ゲッティンゲン市は人口12万人の地方都市だ。何の変哲もない田舎町だけれども、ゲッティンゲン駅の「ゲッティンゲン(Göttingen)」と記されたプレートの下に、「ここは、知を創出する町」(Stadt, die Wissen schafft)と書いてある。いわれてみれば、プランクもハイゼンベルクもここに住み、ゲッティンゲン大学はヨーロッパにおける学術拠点としての機能を持ち続けた。

ゲッティンゲン駅。ここは、知を創出する町(Stadt, die Wissen schafft)と記されている。ゲッティンゲンは小都市ながら、多数の科学者がここで住み暮らした。
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 弟子のハーンとリーゼ・マイトナー(Lise Meitner、1878~1968年)がウランの核分裂反応を発見したとき、プランクはいずれ原爆ができることを予言し、なおかつそれが人類を不幸にすることも見通していた。「それは人類の幸福のために使われなければならない。だがそうはならないでしょう」という言葉を残している。1957年、ここでハイゼンベルクやハーン、マックス・ボルン(Max Born、1882~1970年)ら18人の科学者が西ドイツの核武装に反対する「ゲッティンゲン宣言」を発表した。もしプランクが生きていたら、恐らくここに名前を連ねていたに違いない。

 プランクは私生活ではたびたび悲劇に見舞われた。先立たれた最初の妻との間には2人の息子と双子の娘がいたものの、長男は第一次大戦で戦死。娘2人はいずれも出産時に亡くなり、ベルリン郊外の自宅は大空襲で論文や手記類とともに焼失した。

 そして次男エルヴィンはアドルフ・ヒトラー暗殺計画に加わったとして投獄される。エルヴィンが獄中にあった半年間、ヒトラーはプランクにナチスへの忠誠を誓うよう迫った。しかしプランクは断固としてそれを拒否し、エルヴィンは処刑される。精神を病んだプランクはゲッティンゲンに移り住み、89歳でこの世を去った。