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超然たる人生

 プランクが生きた時代はドイツの学術全盛時代だった。ナチス台頭まで哲学、物理学、化学の世界はドイツが最先端にあり、20世紀前半のノーベル賞受賞者数はドイツが他を圧倒している。

 学術的には優れていても、1914年の第一次世界大戦、1929年の世界恐慌でドイツは徹底的に打ちのめされ、社会にフラストレーションがたまっていた。

 第一級の物理学者のうちヨハネス・シュタルク(Johannes Stark、1874~1957年)やフィリップ・レーナルト(Philipp Lenard、1862~1947年)は反ユダヤ主義の立場から「ドイツ物理学」なる国粋主義的な物理学を提唱した。

 アインシュタインは1921年にノーベル物理学賞を受賞したけれども、実は1921年に受賞を保留されて翌1922年にニールス・ボーア(Niels Bohr、1885~1962年)と共に受賞した。しかも授賞理由は相対性理論ではなく、光量子仮説に対してだった。

 背景にはシュタルクらドイツ物理学者たちの圧力があった。アインシュタインはノーベル賞受賞の報を日本に向かう船上で受け、日本の講演では相対性理論ではなく光量子仮説が授賞理由になっていることに不満を露わにした。つまり1920年代ないしそれ以前からドイツにはユダヤをあからさまに排斥する空気があったということだ。1933年、ヒトラーは必然的に歴史の表舞台に登場したのである。

 ドイツの科学界の頂点にいたプランクは、しかし「ドイツ物理学」にはくみしなかった。無名だったアインシュタインを学界の主流に押し上げ、ナチスに抗してアインシュタインやマイトナーらユダヤ系科学者を最後まで擁護した。1944年、ナチスの外務館クラブで、彼はユダヤ人のアインシュタインを「思想界の指導者にして水先案内人」と語る。すぐさま科学中央局は、プランクのそれ以後の講演活動を中止するよう命令。次男エルヴィンを逮捕する。

 時代の趨勢に流されず、プランクは最後まで超然としてふるまった。凡庸な人生は許されなかったけれど、それだけ輪郭のはっきりした一生だった。

 ところで、アインシュタインには墓がない。本人の希望で葬儀はひっそりと行なわれ、火葬後、遺灰は教鞭をとった米プリンストン大学近くのデラウェア川に流された。脳だけはプリンストン大学へ寄贈された。

(構成は、片岡 義博=フリー編集者)