失われなかった人間性

セント・ジェームス教会にあるリーゼ・マイトナーの墓。
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 ところが、それは打ち捨てられた墓だった。墓の周りには雑草が生い茂り、もちろん花も捧げられていなかった。生涯独身だった彼女には身寄りもないのだろう。ユダヤ人ゆえに親族は強制収容所で命を奪われたのかもしれない。墓石は苔むして朽ちかけており、触れるとぼろりと崩れそうだった。墓の下の方に、ほとんど消えかけた文字がかろうじて読めた。

"A physicist who never lost her humanity."

 決して人間性を失わなかった物理学者――。この墓碑銘には万感の思いが込められている。科学が政治や社会と手を結ぶとき、権力や世間におもねる科学者が少なくない中で、マイトナーは生涯、自らの信念を貫いた。女性ゆえの差別、ユダヤ人ゆえの迫害に遭いながら原爆開発に抗し、戦後は長く反核や女性問題に関わった。

 マイトナーは人々に愛されてしかるべき人間であり、死後もまた人々に愛され続けているのだろうと思っていた。だからこそ、その墓のありようは意外であり、切なくもあった。それを見る限り、もはや忘れられた存在であることを知った。

 一方、ハーンの墓は遺言によってゲッティンゲン市営墓地にあるプランクのそばに立てられたことは、プランクの回で紹介した。プランクの墓と形もスタイルも酷似して、長方形の墓石の上方に名前、下方にウランの中性子による核分裂の反応式が刻まれている。

 科学史の再評価が進んだ現在、1990年代にスウェーデン王立アカデミーはマイトナーの復権を図り、ハーンは核分裂の発見者、マイトナーは核分裂の概念を確立した物理学者と位置付けられている。マイトナーはノーベル賞こそ与えられなかったものの、その名はドイツが1982年に重イオン加速器でつくりだした109番元素の名前「マイトネリウム」に残された。

(構成は、片岡 義博=フリー編集者)