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(前回から続く)

「ACCESSの鎌田さんにすぐ会いたい。実はあまり時間がないんだ」

 1997年末。NTTドコモからブラウザを搭載する携帯電話機の製造依頼を受けた三菱電機 通信システム統括事業部 移動通信端末事業センター 技術第一部長の濱村正夫は,電話口でこう叫んだ。

清水徹氏
三菱電機 マイコン・ASIC事業統括部 マイコン第三部 開発第一グループマネージャ(当時)の清水徹氏
(写真:長尾純之助)

「ACCESSは,仕事上の付き合いがありますから,すぐ連絡できます。でも,そんなに急いでどうしたんですか」

 電話の相手は濱村の慌てぶりに,思わずこう聞き返した。清水徹。兵庫県伊丹市にある三菱電機 マイコン・ASIC事業統括部 マイコン第三部で開発第一グループマネージャを務める男だ。

「ケータイにACCESSのブラウザを載せる話がある。新しい情報サービスをNTTドコモが始めるんだ。清水君の部署にも無関係じゃない。いよいよ32ビット・マイコンの出番かもしれないぞ」

 濱村からの思わぬ言葉に清水は息をのんだ。自分達が手塩にかけて育ててきたマイコンが携帯電話に使われるとなれば,願ってもない朗報だ。それだけではなかった。清水はこの日がやって来ることをうすうす察していた。濱村の話と自分をつなぐ不思議な因縁に清水は興奮を抑え切れなかった。

思いがけぬ出会い

 清水とACCESSとの付き合いは約1年前の1996年11月にさかのぼる。ある昼休み,清水は社内の打ち合わせスペースで新聞を読んでいる同僚を見掛けた。

「清水さん,ACCESSって会社,知ってる? 三菱電機のインターネット・テレビにブラウザを供給したらしいよ」

 同僚は新聞を清水に差し出した。
「ウチのM32Rも,こういうベンチャーに持ち込んだら面白い用途が見つかるかもしれないよね」

 シリコンバレー帰りの同僚は,伸びをしながら言った。大企業との協業が大きな成果を生むとは限らないことを,彼は米国で痛いほど思い知らされてきた。

 清水はハトが豆鉄砲を食ったような顔をした。
「ACCESSなら知ってるよ。大学時代の後輩で鎌田っていう人間がいるから」

 何気なく清水が返したひと言に,同僚は慌てた。
「え,ホント? だったらすぐ電話しようよ。面白いことになるよ。きっと」

 面食らった清水は,ただ言われるまま,鎌田富久に電話した。確かにACCESSの名前は知っていたし,消息を気に掛けてもいた。しかし,直接連絡を取ろうとしたことは大学を去ってから一度もない。思えば,大学院で鎌田と同窓だったころから,10年が過ぎようとしていた。

 電話口に出た鎌田は,昔と変わらない抑えたトーンで開口一番こう言った。
「清水さんのところって,DRAM混載マイコンの開発をやってるんですよね」

 実は鎌田も,先輩の清水が開発に携わったLSIに興味を持っていたのである。

用途探しに奔走

 当時の清水は,業界で初めてDRAMを混載した32ビット・マイコン「M32R/D」の用途探しに頭を悩ませていた。清水はこのマイコンのCPUコアである「M32R」の開発者だ。機器の用途に応じてメモリやアナログ部品を混載し,M32Rを横展開させるのが清水の役目だった。その一つがM32R/D。DRAMの混載によって機器の小型化や低電力化に貢献することを狙ったチップである。しかし,32ビット・マイコンの高い処理能力を必要とする機器はなかなか見つからなかった。

M32R

 清水には,M32R/Dの用途に関して忘れられない思い出がある。1996年2月。米国で開催されたLSI設計回路技術の国際会議「ISSCC(International Solid-State Circuits Conference)」で,清水はM32R/Dの前身になったDRAM混載マイクロプロセサの発表の壇上に立った。慣れない英語での講演が終わってほっとするのもつかの間,1人の日本人男性が清水に近づいて来た。

「面白い発表でした。もう一ひねりしたら,すごく良いモノができそうですね」

 物腰柔らかく,こう言い残してその場を後にした男は,ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の取締役開発部長だった久多良木健。その謎めいた言葉が何を意味するのか,この時の清水には見当がつかなかった。1999年3月にSCEが「プレイステーション2」向けDRAM混載グラフィックス処理LSIを発表したとき,初めて清水は久多良木の発言の背後にあったものを理解した。

 久多良木との出会いがすれ違いに終わった一方で,鎌田との再会は清水に大きな実りをもたらした。当時鎌田は,PDAに載せるブラウザを開発していた。このブラウザを動かすために三菱電機のM32R/Dはうってつけだと,清水と会う前から鎌田は目を付けていた。

携帯電話に載せたい

 旧交を温める間もなく,2人はビジネスのパートナーになった。2人が10年ぶりに顔を合わせてから半年後の1997年の中ころ。清水と鎌田は,M32R/DとACCESSのブラウザを搭載するPDAの試作に取り組んでいた。夏を直前にしたこの日も,清水は定例の打ち合わせで東京・水道橋のACCESS本社を訪れた。打ち合わせが終わり,大阪の伊丹に戻るため身支度を始めた清水を突然,鎌田が呼び止めた。

「清水さん,いいもの見せましょうか」

 鎌田は清水を手招きし,自分のノート・パソコンを開いた。
「これ,携帯電話機を想定して作ったブラウザのプロトタイプなんです。これから売り込みをかけようと思ってまして」

 電子メールやニュース,画像コンテンツなど,大量のデータがブラウザ上に次々に映る。

「へぇ,こんなのがケータイに載るんだ」

ノート
(写真:長尾純之助)

 これだけの情報を携帯電話でやりとりする時代が来れば,いずれ16ビット・マイコンでは処理が追い付かなくなる。M32Rのような高性能のCPUコアが携帯電話機に載る日も,そう遠くない。清水は確信した。鎌田はブラウザの動作に必要なメモリ容量なども少しだけほのめかした。先輩と後輩だからこそできた会話だ。既に手帳をカバンにしまった後の清水は,その内容を細大漏らさず記憶にとどめた。たとえ手帳を持っていたとしてもメモを取れる雰囲気ではなかった。帰りの新幹線で清水は,鎌田のブラウザを携帯電話機に載せるには,M32Rにどのような改良が必要かを書き留めた。ケータイの電池はDRAMではもたない。SRAMを使おう。開いたノートの真っ白なページは,瞬く間に清水のアイデアで満たされていった。

人が技術をつないだ

 1997年の末。濱村からの電話を受けて間もなく,清水は鎌田と濱村をACCESS本社で引き合わせた。鎌田と濱村が談笑する姿を見て,清水の感慨もひとしおだった。濱村と鎌田が会うことになった理由は,あくまでもNTTドコモから開発の依頼が舞い込んだからだ。清水は全くの部外者であり,この場限りのつなぎ役でしかない。

 それでも清水は満足だった。あの時鎌田がこっそり見せてくれたブラウザが,本当に携帯電話機に載ることになった。清水が手掛けたM32Rもいよいよ携帯電話機に搭載されるかもしれない。何よりも清水は,どんなに技術が進んでも,その流れを導くのは人のきずなであることに感じ入った。

「人と人のつながりが技術の方向性を決める。技術ってそんなもんです」

 当時を思い起こす清水の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

試作ボード
三菱電機によるiモード対応携帯電話機の試作ボード
(写真:長尾純之助)

何をもって勝ちとするか

 ――ブラウザは自社で開発できる。

 1998年1月。三菱電機と並んで後発組として開発に参加した富士通では,議論が戦わされていた。ACCESSのブラウザを推すNTTドコモの案を社に持ち帰った,移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)の片岡慎二は技術者の反対意見に直面した。

 富士通はかつてWindowsパソコン向けのブラウザを自社開発し,製品に搭載した実績がある。米Netscape communications Corp.の「Netscape Navigator」や米Microsoft Corp.の「Internet Explorer」の台頭でパソコンでは旗色が悪くなったものの,社内ではPDAなどで動くブラウザの研究開発が続けられていた。自分たちにブラウザを開発するノウハウは十分にあると主張する技術者の言い分も片岡にはよく分かった。

 一方富士通は小型パソコン「INTERTop」でACCESS製のブラウザを採用した実績もあった。片岡自身,ACCESSの技術力をかねて高く評価していた。

片岡慎二氏
富士通 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二氏
(写真:桑原太門)

 はっきりと態度を決められないまま,片岡は東京・水道橋のACCESS本社を訪れた。他社を前にした時と同様,鎌田のプレゼンテーションは淀みなかった。

「メモリ容量は300Kバイト程度です」

 鎌田のひと言に片岡は愕然とした。社内の技術者からは,自社でブラウザを作った場合1Mバイトを超えると報告を受けていたからだ。それでも片岡は自社のスタッフに任せてみたいと最後まで頭を悩ませた。現実がそれを許さなかった。

「富士通さんが一番遅れてます」

 何度目かの打ち合わせでACCESSの笛木一正に片岡は指摘された。自分で意識していることでも他人の言葉になって響いたときの痛みは大きい。NTTドコモからも同様な圧力が加わっていた。三菱電機も同じような境遇にあったことなど,片岡には知る由もなかった。

 半年後には交換対向試験が迫っている。約10カ月後には端末をNTTドコモに納めなければならない。富士通の社内にブラウザ開発の技術があったとしても,今から技術者を集めて,一から開発している余裕は事実上なかった。

「納期に間に合わせることが最優先だ」

 片岡はACCESSのブラウザを選んだ。

退路を断つ

「ACCESSの荒川さんに来ていただいたのは,1998年2月20日の午前11時ごろでした」

 松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 開発技術部 ソフトウェア2課 係長(主事)の加藤淳展は,今でもあの日の出来事を鮮明に覚えている。場所は横浜市港北区にある松下通信工業の会議室だった。

 加藤は,同じ部のソフトウェア総括課長(兼)ソフトウェア1課長の藤井雄一と2人で,ACCESSの代表取締役社長である荒川亨と同行した営業担当者2人を構内の古びた会議室に招き入れた。廊下に面したガラス窓しかなく,屋外の景色はうかがえない。日光が差さない薄暗い部屋だ。全員が席に着くと,ほとんど満員の状態である。藤井は,簡単な世間話でその場の空気を和ませた。これから何が起こるのかを知る加藤の額には,脂汗がじわじわと浮き始める。

「今日わざわざおいでいただいたのには,訳がありまして…」
 藤井の声がかすれる。

「実は,ブラウザを自社で開発することに決めました」

「……」

 荒川は,身じろぎ一つせず,ただ黙って加藤らを見つめる。

「松下電器産業が以前,ワープロ向けにブラウザを自社開発した経験があります。この技術をベースに,携帯電話機向けも独自開発したいと思います」

 荒川の顔に落胆の表情が広がっていくのを,加藤は目の当たりにした。加藤にしてみればACCESSは,これまでブラウザの仕様確定作業に汗を流してきた同志ともいえる存在だ。今回の決定で縁が切れてしまうことは,加藤にとって断腸の思いだった。

「…理由を教えて頂けますか」
 黙っていた荒川がため息交じりに口を開いた。藤井は精一杯の誠意をもって荒川に説明する。

「ブラウザは今後,携帯電話の顔になると思います」

 自社開発という結論に達するまで松下通信工業は社内で議論に議論を重ねてきた。その中で浮上してきたのが,今後ブラウザが携帯電話機に標準搭載されるとの見方だった。そうなれば,ユーザーが常に接するブラウザは,いわば携帯電話機の顔になる。近い将来,その性能や操作をめぐって,各メーカーがしのぎを削ることになるだろう。製品戦略を大きく左右するソフトウエアだけに,最初から他社に任せては将来に禍根を残しかねない。

「加藤,お前に本当にできるのかよ」

 一方で,三菱電機や富士通を悩ませた開発期間の問題は,松下通信工業の前にも厳然と横たわっていた。製品投入まで1年を切った今,ブラウザの内製に方針転換して納期に間に合うのか。加藤らソフトウエアの実装グループに,そう詰め寄る技術者もいた。加藤らに確信があったわけではない。そもそもできるかできないかは議論の対象ではなかった。「間に合う」「間に合わない」ではなく「間に合わせる」しかないのだ。

その時,覚悟を決めた

 ブラウザを内製に切り替えることを決断した理由はほかにもあると,藤井は荒川に告げた。1つはロイヤルティーである。ACCESSとの間でブラウザのライセンス契約を結べば,端末が売れるごとにロイヤルティーを支払う必要が出てくる。ブラウザを搭載する携帯電話機がもし大ヒットすれば,その金額は莫大になる。もう1つの懸念はACCESSのマンパワーだった。もはや発売まで1年を切った端末開発に,携帯電話機メーカー数社が参入しているようだ。そのブラウザ開発を一手に引き受ける力がACCESSにあるのか,不安は最後までぬぐい去れなかった。

「ロイヤルティーや人材の投入について,条件を再調整させていただけませんか」
 荒川は最後まで,再考を求めた。

「会社として決めたことですので…」
 藤井は口を真一文字に結ぶ。

「そうですか…。そういった心配があるのでしたら,もっと前からこちらからもお話をさせていただくべきでした」

「…あくまでこれは松下通信工業の戦略としての判断です。誤解なさらないでいただきたいのですが,御社のブラウザが技術的にどうのという話ではありません。ほかの機器ではお付き合いすることが出てくるでしょうから,今後ともぜひよろしくお願いします」

 藤井が頭を下げる。

 会議室を後にする荒川の顔は,こわばっていたが,吹っ切れたようでもあった。加藤の目には,荒川が他メーカーとの協業に勝負を懸ける覚悟を決めたように映った。覚悟を決めたという意味では,加藤も同じ気持ちだった。荒川らを見送りながら,加藤はこれが重大な決断であることをあらためて認識せずにはいられなかった。

「会議室を去る荒川さんの後ろ姿を見て,もう自分たちには逃げ道はない。これからは単独で開発するしかないんだと痛いほど思い知らされました」

 加藤の不安は的中する。加藤の覚悟を上回るほどの苦難が,その後加藤らを襲うことになる。

いよいよ独立独歩の道へ

「田中さん,会議,終わったよ」

加藤氏と田中氏
松下通信工業(当時)の加藤淳展氏(右)と,松下電器産業(当時)の田中康宣氏(左)
(写真:周慧)

 加藤はスクリプト言語の専門家として行動を共にしていた,松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 主席技師(副参事)の田中康宣に声を掛けた。すっかり疲れ果てた様子で,田中に歩み寄る。

「あとは,やるしかないな」

 田中の表情も加藤と同じく険しかった。

「これで良かったんだよね」

 加藤は田中に賛意を求めた。田中は黙ってうなずいた。押しつぶされるようなプレッシャーと新しい技術に挑戦できるという喜びに挟まれ,田中の顔は上気していた。

=敬称略

―― 次回へ続く ――