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(前回から続く)

 1998年4月。東京・品川。京浜急行・青物横丁駅の前には,昔ながらの商店街がにぎわいを見せている。改札を抜けて10分。立ち並ぶ住宅の間に台形状の巨大な建造物が姿を現す。松下電器産業・マルチメディアセンターの近未来的な外観は,下町情緒の漂う中でひときわ異彩を放っていた。

マルチメディアセンター
松下電器産業・マルチメディアセンター(当時)

「うわー,大盛況やな」

 松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 主席技師(副参事)の田中康宣は,会場に足を踏み入れるなり,我知らず口走った。100人近い参加者で混み合った場内に身を潜らせる。

 この日,この場でインターネットの標準化団体W3C(World Wide Web Consortium)は「W3C Mobile Access Workshop」を開催した。田中はこれまでにも何度かW3Cのワークショップに参加した経験があったが,今回ばかりは場内の熱気が違って見える。

 ブラウザを搭載する携帯電話機の試作が佳境に入り,多忙の最中にあった田中だが,この場にだけは駆け付けずにはいられなかった。何しろ,携帯電話機向け記述言語の標準の座を争う2つの陣営の代表が直接相まみえるのだから。

夏野剛氏
NTTドコモ(当時)の夏野剛氏
(写真:柳生貴也)

 会場で配られた冊子にはそうそうたるメンバーが発表者として名を連ねている。WAP陣営からは,WAP フォーラム,米Unwired Planet,Inc.,フィンランドNokia社といった主要なメンバーが軒並み顔をそろえた。田中らが肩入れするCompact HTML側では,生みの親であるACCESSの取締役副社長 研究開発担当の鎌田富久が登壇する予定だ。そしてもう1人,NTTドコモが送り込んだ夏野剛は後に田中の度肝を抜く。そんなこととはつゆ知らず,両陣営の勢いを見極めようと身構える田中は,会議の開始をかたずをのんで待った。

携帯メーカー5社が協力

 会議はWAP陣営の講演で幕を開けた。Unwired Planet社のPeter Kingが壇上に立つ。題目は「Technical Issues with the Wireless Web」。

「携帯電話機は,バッテリー容量やCPUの能力,メモリ容量に制限があるツールだ。そのまま既存のインターネットにつなげることは経済的なメリットに乏しく,無意味とさえいえる。HTMLではモバイルの世界になじまない。WAPのように携帯電話機の特性に合わせた独特な仕組みが必要不可欠だ」

 Kingは拳を振り上げてまくし立てた。米国人らしい堂に入った態度に,聴衆はぐいぐいと引き込まれた。発表が終わると,会場からは詳細な説明を求める質問が矢のように飛んだ。

 後を受けて演台に登った鎌田の背筋もまた,鋼のようにピンと伸びていた。「Compact HTML for Small Information Appliances」と題し,携帯電話の世界にもあくまでもオープンな標準規格が必要だと主張する。HTMLの優位性を語る鎌田からにじみ出る自信は,事実に裏打ちされていた。鎌田がW3Cの会議で初めてCompact HTMLのアイデアを語ったのは1年前の1997年2月。そのころと比べると,何もかもが違う。Compact HTMLはもはや絵に描いたもちではない。年末の製品化に向け,対応する携帯電話機の開発が粛々と進んでいる。

 鎌田はCompact HTMLを「オープンな規格」と言い切るだけの根拠も手にしていた。1997年の末から1998年1月にかけて,鎌田はCompact HTMLを標準規格にするための作業に没頭した。W3Cに標準として認めてもらえるように,Compact HTMLの仕様を詳細に記述した規格案を作成し,共同提案者になってくれる企業集めに奔走した。

 ここで鎌田を助けたのが,Compact NetFront Browserの搭載に向けて苦楽を共にしてきた各メーカーの技術者たちだった。自社内でW3Cの窓口になっている担当者に,提案の内容を説明したり,携帯電話機事業担当の取締役などに提案メンバーへの参加を認めるよう根回しをしてくれた。その努力が実り,NEC,三菱電機,富士通から快諾を得た。ブラウザの開発ではACCESSとたもとを分かった松下通信工業も,親会社の松下電器産業が名を連ねることになった。もう1社,鎌田が声を掛けたのがソニーである。当時CDMA方式の携帯電話機を製造していたソニーは,鎌田の提案には直接関係がないにもかかわらず,快くメンバーになることを了承してくれた。鎌田の唯一の心残りはNTTドコモだった。移動機技術部の主幹技師・永田清人の異動をきっかけに,鎌田が提案メンバーに一番加わってほしかったNTTドコモの賛同を得る道は途絶えた。

 1998年2月9日。NTTドコモの協力は得られないまま,ACCESSほか5社は連名で,W3Cに提案書を提出した。その2週間後,2月24日にW3Cは提案を正式に受理し,WWWサイト上で公開を始めた。

Compact HTML

強烈な援護射撃

 ――W3Cのワークショップの議論の行方を決定的に方向付けたのは,鎌田の次に登場したNTTドコモの夏野だった。さらりとあいさつをし,流暢な英語で弁舌をふるい始める。

 夏野は「DoCoMo’s Gateway Service」と称し,計画中のコンテンツ・サービスの概要を惜しげもなく披露した。ネット・バンキングやゲーム配信,チケット予約といった具体的なアプリケーションが次々に示される。夏野の説得力あふれるプレゼンテーションと,聴衆を圧倒する不思議な能力に,田中は感動した。夏野が言う通りの時代が来る。そう信じずにはいられなかった。

「ありとあらゆるものがつながっていくこと。これこそ,今後の情報通信社会に求められる課題だ。そのためにはHTMLを使う以外にあり得ない。HTMLを使えばWWW上に存在するあらゆるコンテンツ資産を使える。携帯電話だからといって,WAPのようにプロプラエタリーな言語では普及は見込めない。今やHTML は加速度的に広まっている。誰でもHTMLで簡単にコンテンツを書ける時代だ」

 実は夏野は,以前からさまざまな場でHTMLの優位性を語っていた。NTTドコモに転身する以前から,インターネット・ビジネスの世界にどっぷり漬かってきた夏野は,HTMLを使わなければ機器の普及はおぼつかないことを肌で感じ取っていたのである。

 ゲートウェイビジネス部を率いる榎啓一らも同意見だった。iモードのコンテンツを開発するゲートウェイビジネス部は,既に後戻りが不可能なほど,Compact HTMLの仕様に深くかかわっていた。それなのに鎌田の標準化の提案に乗らなかったのは,彼らの意見が必ずしもNTTドコモを代表するものではなかったからである。社内にはいまだにWAPを支持する声が根強く残っていた。実際この年,NTTドコモはWAPフォーラムへの参加を表明することになる。

 もともとNTTドコモの社員でなかった夏野は,そんなことにはおかまいなしだった。講演を終えた後も,夏野の鼻息は収まらない。質疑応答に移るとすぐに,外国人の男性が,英語で質問を投げ掛けた。田中の目には,相手はWAP陣営の1人だと映った。夏野はおじけづくどころか,水を得た魚のように応じ始めた。

 次第に両者は興奮し,いつの間にか机を挟んで口角沫(あわ)を飛ばすディベートが始まった。夏野は手馴れた様子で,反論を続ける。どんな反論を仕掛けられても,夏野は全く動じない。攻撃をたくみに擦り抜け,ひと回り大きな声を張り上げて逆に相手をやり込めた。米国で教育を受けた夏野にとって,こうしたディベートはお手のものだ。テーブルに軽く腰を掛け,相手の目を真正面から見据えて語る夏野の姿が田中の目に鮮烈に焼き付いた。

「すごい男がドコモにはいるんやなぁ」

 田中が思わず口にしたひと言は,その場にいた聴衆の思いを代弁していた。

大部屋に技術者を集めろ

「よし,この広さなら使える。全員ここに集めるぞ」

 同じころ,大阪・尼崎の三菱電機では,通信システム統括事業部 移動通信端末事業センターで技術第一部長を務める濱村正夫の威勢の良い声が響き渡っていた。新たな年度を迎え,後発で開発に参入した三菱電機でもいよいよ実作業がスタートした。

 濱村は,ブラウザを搭載する携帯電話機の開発チームの作業場としてふさわしい場所を探していた。総務部に出した条件はただ1つ。とにかくガランと広いことだ。濱村にあてがわれたのは,それまで研修室として使われていた殺風景な部屋だった。建物の一番端にあり,決して便の良い場所とはいえなかった。それでも濱村は満足だった。本当に広かったからだ。

「いいねぇ,広さはどのくらいあるんだ」
 総務部の担当者を濱村は振り返る。

「えー,200平米くらいやったと思いますよ。とにかく広い所ゆう話やったんで」

「オッケーだ。やっぱりこのくらい広くないとダメだよな。よし。早速全員引っ越しさせてくれ」

 山ほどのダンボール箱や机,パソコンなどを携えて総勢30人に及ぶ技術者が建物のあちらこちらから異動してきた。

「どうだ,広くて気持ちいいだろう」
 荷ほどきをする技術者たちに濱村は声を掛けて回った。

「パーティションなんて要らないぞ」
 気を利かせたつもりで「机と机の間のついたては」と聞いた技術者に,濱村は即座に答えた。

「いいか,オレは大部屋が好きなんだ。みんなの顔が見られる環境でなきゃ,いい仕事なんてできるわけないだろ」

 威勢良く振舞う濱村も,内心では不安を抱えていた。
「この素人集団で,大丈夫だろうか…」

 濱村がここまで「大部屋」にこだわったのには理由があった。部員の間のコミュニケーションを円滑にして,互いに助け合う環境をつくることがどうしても必要だった。実は,濱村の下に集まった技術者のほとんどは,携帯電話機部門に配属されて1年未満の「新人」だったのである。

 三菱電機は,好調な携帯電話機事業の強化を目指して,1年ほど前に社内公募で技術者を増やした。希望者は上司に知られることなく,直接人事部門に異動願いを出せる仕組みだった。採用が決まった場合,元の上司に拒否権はない。社内からは予想を大幅に上回る数の応募が殺到した。みんな携帯電話機の将来性に期待している人材ばかりだ。濱村は面接官として人選に参加し,約30人の新人を獲得した。キャリアはともかく,やる気がある人材が欲しい。今の部署が嫌だから異動を望む人間は要らない。濱村は徹底して技術者の意気込みにこだわった。実際,各技術者の経歴はというと,重電や半導体プロセス,ソフトウエア,生産技術とバラバラだった。

 こうして獲得した人材はこの1年間,パワーアンプ,パケット通信,ベースバンド,ソフトウエアなどそれぞれが配属された現場で経験を積んできた。それでも「ベテラン」と呼ぶには程遠く,新人の域を脱していなかった。

 ブラウザを搭載する携帯電話機の開発に新人があてがわれたのには理由がある。当時,PDC機の売り上げは絶好調だった。勢い,その開発部門には社内でもえりすぐりの専門家が集まり,互いにしのぎを削るエリート集団と化していた。このまま高い成果を残し続けるためには熟練した技術者を,海のものとも山のものともつかない製品の開発に使うわけにはいかない。こう会社は判断したのだ。ブラウザを搭載する携帯電話機の開発に許可を与えた会社だったが,まだその将来性については認めていなかった。

「そりゃそうだな」

 会社の判断に対し,濱村に異論はなかった。まぁ,見ていてほしい。きっと考えが変わるから。大部屋に集まった技術者の目の輝きを見て,濱村はふんどしを締め直した。

首はタテに目玉はヨコに

 1998年の夏。サービス開始まで数カ月に迫り,現場の慌ただしさは日増しにつのっていった。榎らゲートウェイビジネス部は,iモードの枠組みに乗ってくれるコンテンツ提供者を着実に集めていた。夏野のたくみな話術に幻惑されたかのように,都市銀行などの手堅い企業さえもが次々に協力を申し出た。

榎啓一氏
NTTドコモ(当時)の榎啓一氏
(写真:的野弘路)

 一方で,遅れに遅れているのが端末の開発だった。6月にも実施するはずだった交換対向試験はいまだ始まらず,携帯電話機のモックアップすらない。このままでは年末商戦に間に合わせるという計画の実現は絶望的だった。いつサービス延期の決定が下されてもおかしくなかった。

 そんな中,榎は新事業の将来性を関係各社に説明して回っていた。メーカーの開発現場が血のにじむ思いで作業を進めていることは分かっている。ただし,会社として今回の開発にそれほど大きな期待を寄せていないことも事実だった。「大きな市場があるとは到底思えない」「売れてもせいぜい年10万台だろう」。そんな本音が榎の耳にも漏れ伝わってきた。

 どんなに榎がかき口説いても,なかなか理解は得られなかった。まだ先の見えない新事業に対して,疑いの目を向けられることは日常茶飯事だった。

「たとえ首は縦に振っていても,目玉が横に動いている人もいた」

 榎は,こう表現する。

 その日,榎らは東京・御成門にある松下通信工業を訪れた。役員用の応接室で出迎えたのは,松下通信工業の代表取締役社長である川田隆資と,同社 取締役 パーソナルコミュニケーション事業部長である桂靖雄だった。

松下通信工業
東京・御成門の松下通信工業(当時)

 持ち前の飄々とした態度で,榎は事業の将来性やコンテンツの集まり具合を語った。

「恐らく何台売れるという話もしたと思う。はっきりとした数字は覚えていないが,初年度で数百万台を売り上げると言ったかもしれない。必死だったから…」

 悠然と構える桂は満面の笑みで応じた。
「お話はよく分かりました。もちろん精いっぱい協力させていただきます」

 シェア第1位の携帯電話機メーカーの事業責任者にそう言われて,榎はどんなにほっとしたか知れない。

「今日は,お昼をご用意させていただいてますんで,ゆっくりしてってください」

 桂が促した先のテーブルには,昼食が用意されていた。豪華なカツ重だったと榎は記憶している。ぜいたくで,おいしい食事を出してもらった。そんな印象が残っている。

 桂は照れながら反論する。
「そんな大層なものじゃなかったですよ。単なる出前のカツ丼でした」

R&Dセンタ
NTTドコモ R&Dセンタ

パーより上を目指す

 NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長の西山耕平は,京浜急行電車の三崎口行き快速特急に乗っていた。ひざの上にはアタッシェ・ケースに見える箱がある。周囲の目に隠されたその内部には,交換対向試験に使う試作ボードが入っていた。人目を気にせず持ち運べるように,わざわざふたを付け,カバンに見えるように工夫した。

 西山が向かう先は神奈川県の三浦半島にある横須賀リサーチパーク(YRP)。NTTドコモの担当者との打ち合わせだった。ようやく試作ボードが交換対向試験に使える水準になってきたのである。

「とにかく通らなかった」

 西山が当時を振り返る時,表情は険しくなる。試作ボードに搭載したCompact NetFront Browserからプロトコル・スタックを介して無線のシミュレータ,サーバへとつなぐ試験を社内で何度も重ねてきたが,どうしても成功しなかった。シミュレータを使って成功しなければ,実際の交換機と接続する交換対向試験には当然臨めない。試験が失敗するたびに西山らは血眼に成ってバグを探した。

西山耕平氏
NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平氏
(写真:栗原克己)

 数台ある試作ボードの1つはACCESSにも預けてあった。昼夜を問わず,西山の携帯電話が鳴った。どうしても通らないから持って帰って検査してほしいという連絡が,ACCESSの開発担当課長である大城明子から頻繁に入った。

 快速特急の揺れに身を任せながら,西山は気分を切り替えた。恐らく試作ボードの完成では他社に遅れを取っただろう。しかし,製品の投入では必ず鼻を明かしてみせる。

 いつからか,開発中の製品は「バーディー」というコード名で呼ばれるようになっていた。ゴルフ用語のバーディーである。パーより上を目指そう。もう1つ上を狙おうという発想から出た言葉だった。当時,NECは携帯電話機の販売シェアで松下通信工業に次ぐ第2位だった。この状況を覆そうとの思いがコード名には込められていた。

 まだモックアップも完成していない段階だったが,西山には確かな手応えがあった。この製品でトップ・シェアに立てるかもしれない。何しろバーディーには他社の製品にはない大きな特徴があるのだから。

「1番になりたい」

 YRPからの帰路,西山は1人,夜景を見つめながら思った。

対向試験,1番乗りは…

「そっかぁ。今日は試作ボードと一緒やから,タクシーに乗れるんやね。うれしいなぁ。ほんと,いい日やわ」

 1998年8月27日。交換対向試験に1番乗りしたのは,松下通信工業だった。この日の朝,試作ボードを抱えた同僚たちを従えて,1人の女性が東京駅からタクシーに乗り込んだ。

 目指すのは,四谷にあるNTTドコモの試験施設である。

「いよいよやねぇ。ホンマ,長かったわ。まだ終わりやないけど」

 窓の外を過ぎ去る,早朝の四ツ谷駅を見ながら,女性は明るく微笑んだ。

=敬称略

―― 次回へ続く ――