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(前回から続く)

 ――開発コード名は「トナカイ」

 富士通の社内では,ブラウザを搭載する携帯電話機をこう呼んでいた。発売予定がクリスマス・シーズンだったからだ。サンタクロースがトナカイの引くソリに乗ってプレゼントを運んでくる。そんなイメージで名付けた愛称だった。

 トナカイという名前には,納期を絶対に守るという開発陣の誓いも込められていた。

「冒険することも必要だが,顧客の求めに応じることが先決だ。何よりも納期を優先しよう」

 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)の片岡慎二はこう言って技術者にハッパを掛けた。最後発で開発に参加したことが納期の遅れにつながってはならない。NTTドコモの仕様を確実に実装し,スケジュール通りに納めることが第一だ。中途半端に機能を強化しても,それが原因で他社に遅れを取ってしまったら元も子もない。それよりも,あわよくば端末の納入で一番乗りし,他社に一泡吹かせてやりたい。片岡の思いは痛切だった。

 それだけに,1998年8月のNTTドコモの決断に,片岡は内心忸怩(じくじ)たるものを感じずにはいられなかった。「iモード」のサービス開始時期を当初予定の1998年12月から,1999年2月に延期したのである。携帯電話機メーカー各社の開発スケジュールが遅れに遅れていることが原因だった。富士通もご多分に漏れなかった。

「もうこれ以上の延期は死んでもダメだ。次は絶対に間に合わせるぞ」

 片岡は,発売が2カ月延びたことで安心するどころか,NTTドコモの期待を裏切ったという悔恨の念に一層さいなまれていた。

 1998年9月末。富士通の開発陣は東京・神谷町のNTTドコモ・ゲートウェイビジネス部を訪れ,製品企画のプレゼンテーションを実施した。

 この時,富士通がNTTドコモに提示したのは単なるモックアップではなく,一部の機能が動作する試作機だった。片岡は知らなかったが,同じころにNECも製品企画を説明していた。NECが動かないモックアップしか出せなかったのに対し,富士通の試作機には既にブラウザが載っていた。完成には程遠いものの,試作機の電源を入れて,画面に文字を映し出すことができた。何が何でもスケジュールを遵守するという片岡の執念は,確かな実を結びつつあった。

「他社さんの製品とは見栄えが違うのではないでしょうか」

 片岡が自信たっぷりの様子で差し出したのは,黒光りする筐体だった。アクリル樹脂を筐体の表面に配し,独特の質感を出している。従来機種では液晶パネルのカバーだけにアクリル樹脂を使っていたが,今回の製品では画面やキーボードが並ぶ面全体をアクリル樹脂で覆った。筐体全体の質感を統一するためだった。

上田義弘氏
富士通 総合デザインセンター プロダクトデザイン部(当時)の上田義弘氏
(写真:桑原太門)

 この携帯電話機をデザインしたのは,富士通 総合デザインセンター プロダクトデザイン部の上田義弘らのグループ。片岡の自信満々の態度も,上田らの苦労があればこそだった。

これは「ケータイ」じゃない

 上田に対して,携帯電話機開発部門からデザインの依頼があったのは1998年6月のことだった。

 ――デザインが1日でも遅れたら,その分のツケが実装のスケジュールに回ってくる。

 実装部隊は上田に容赦なくプレッシャーをかけた。

 1998年7月。作業に着手して2週間余りで,上田は早くもデザイン画のプレゼンテーションに駆り出された。上田の前にはNTTドコモ・ゲートウェイビジネス部の松永真理が座る。彼女を納得させない限り,どんなデザインも文字通り絵に描いたままで終わってしまう。

 短期間のうちに,上田は明快なコンセプトのデザインを生み出していた。上田が一番こだわったのは,画面の大きさが目立たないことだった。画面が従来の携帯電話機よりも大きいブラウザ搭載機は,手に持つ部分の幅を従来機と同じにするとどうしても「しゃもじ型」になってしまう。これを避けるため,上田は全体の幅を画面に合わせて広げることにした。すると数字キーの横に,ボタンの列をもう1列増やせる程度のスペースができる。ならば本当にボタンを増やしてしまおう。上田は数字のキーが縦3列で並んでいる左横に,もう1列,仮名漢字変換などに使う操作キーを縦に並べて配置した。

 これが裏目に出た。松永は4列目のキーの存在を知ると,一瞬にして顔を曇らせた。

「これはケータイじゃない」

 携帯電話機の常識を逸脱した代物に,松永は拒否反応を示した。

「使い勝手が変わるようじゃダメ。広く普及させたいのよ。普通のケータイだけど,ちょっと新しくて,格好いい。そんなケータイが欲しいんです」

 松永は,にべもなくデザイン画を押し返した。

次で決めないと…

 ――次の打ち合わせでデザインを決めないと,予定通りの発売は夢に終わる。

 松永に賛同を得られなかったと知った実装部隊の担当者は,がっくりと肩を落とした。何とかして納期に間に合わせたいという思いは,上田も同じである。再提案がもし受け入れられなかったらと考えれば考えるほど,余計にデザイン案を絞り込めなくなった。

デザイン案
(写真:桑原太門)

「もう,松永さんに決めてもらうしかありませんね」

 上田らは,これまで考えたあらゆるデザイン案をNTTドコモに持ち込んで,松永の好みを聞き出す窮余の作戦に出た。

「これは,我々が『F20X』系の先行開発に向けて作ってきたデザイン案のすべてです。この中に松永さんの考える携帯電話機に近いものはありますか」

 机の上には,所狭しとモックアップやデザイン画が並んだ。どれも派手な色合いや,数字キーの形などで,これまでの携帯電話機とは少し違った個性を持っている。松永は顎に手を当て,すべてをじっくりと見定める。松永の指が動いた。

「これよこれ。これ,いいじゃない」

 松永は,黒光りする筐体が描かれたスケッチを指さした。デザインのコンセプトは,何もない真っ黒の筐体から,光や文字がいきなり飛び出してくる機器。次世代の表示装置が実用になるもっと先の世代で使おうと,上田らが温めていたデザインだった。

歩留まりが悪い

「アクリル樹脂の1枚板なんて,材料コストが高過ぎるよ。4回も印刷工程が必要? 歩留まりのこと考えてる?」

 実装の担当者が上田に詰め寄った。ガラスはどうかと聞かれても,上田は首を横に振った。耳を当てる場所や数字キーが並ぶ部分に3次元的な凹凸を付けたかったからだ。ガラスでは真っ平らな板しか作れない。ポリカーボネート樹脂も検討したが,透明度が低く,コンセプトにそぐわなかった。

 黒い筐体から文字を浮き出させるため,従来機のようにボタンに文字を印刷するのではなく,ボタンに隣接するアクリル樹脂の上に文字を印刷することにした。バックライトが点灯すると文字が浮き上がる効果を出せる。

「松永さんは,光沢のある筐体から文字が浮き出すアイデアに興味を示してくれた。一見歩留まりが悪そうでも,きっとNTTドコモは採用してくれる」

 上田の説得で,次第に社内に賛同の声が増えていった。数カ月後には,その誰もが予期しないほどの脚光に,この黒光りする筐体は照り輝くことになる。

カタログとスケッチ
(写真:桑原太門)

線表の重み

 その日は,NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長の西山耕平の人生の中でも最悪の一日になった。この日の朝,西山は20年間の技術者生活で初めて,寝過ごすという失態を犯した。移動中の電車で上司に電話をかけても一向につながらない。NTTドコモに提出する書類を,前日までに上司に見せると約束していたが,西山には書類を作っている時間がなかった。上司の反対を押し切り,当日の朝まで待ってほしいと願い出た。その約束を西山は自らの手でほごにしてしまった。

「俺の言う通りにしないからだ」

 待ちわびた上司は,西山の顔を見るなり大目玉を食らわせた。それはまだ序の口だった。

「一度守ると断言した線表を,簡単に変更するものではない」

西山耕平氏
NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長の西山耕平氏
(写真:酒井俊春)

 上司を伴って訪れたNTTドコモ。いつもは温厚な端末開発責任者が,この時ばかりは声を荒げた。西山らは必死の形相で同じ言葉を繰り返すしかなかった。

「何とか発売をあと1カ月延ばしていただけませんでしょうか」

 NTTドコモに対して提出するスケジュール表は「線表」と呼ばれている。NTTドコモが発売を1999年2月に延期すると決めた時,線表は余裕をもって再設定されたはずだった。それにもかかわらず,再び約束は破られた。前回の決定からわずか3カ月しかたっていない。

 ――今度こそ,再度の延長は有り得ない。

 開発の足を引っ張っているのが何であるかは明白だった。新たに作り上げなければならないソフトウエアの規模があまりにも大き過ぎた。

 従来の「デジタル・ムーバ N206 HYPER」と比べてブラウザを搭載する携帯電話機のソフトウエアの行数は,RAMで4倍,ROMは2倍。西山らが追加した新機能は,開発の負担を当時の常識から懸け離れた水準に引き上げていた。

 西山らの頭を特に悩ませたのは「音着」の問題だった。パケット通信時に電話がかかってきた場合に,ブラウザの動作を一端中断して通話に切り替える操作である。この部分をつかさどるソフトウエアがギリギリまでうまく動かない。とうとう電気通信端末機器審査協会(JATE)に無線端末としての認定を受ける審査に落ちてしまった。NECがようやく審査を通り抜けたのは,再度の発売延期を申し出る直前の1998年10月30日だった。

「西山さん,私たちに何かしてほしいことはありますか」

 2度目の発売延期が決まった日,NTTドコモの現場の担当者は心配そうな声で西山に声を掛けてきた。

 NECが独自性にこだわって大規模なソフトウエアを開発していることを担当者は知っている。しかしこれ以上スケジュールに遅れが出ては,サービスに影響が及んでしまう。何か手助けできないかという心遣いだった。

「ありがとうございます。音着に苦労しておりましたが,何とかなりそうです。もう二度とご迷惑はおかけしませんから」

 西山は苦渋に満ちた表情で答えた。

管理者としての責任

「社会人になって今まで,あれほど忙しかったことはないですよ。自分もさることながら,管理者として,健康を害する技術者が出ないかが心配でした」

 西山が日々,頭を悩ませたのは開発の遅れだけではなかった。スケジュールが遅れれば遅れるほど,部下の残業時間が増えていった。

 西山とソフトウエア開発を共にしていたNEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 主任の林啓一も,並外れた残業時間を記録している技術者の1人だった。林はブラウザの開発を担当するACCESSを毎週2回~3回は訪問し,ソフトウエアのバグを修正する生活を続けていた。ACCESSのCompact NetFront Browserはまだβ版の段階で,作り込みの真っ最中だった。ACCESSから担当者がNECに来てくれれば,林の負担は少なくなるというものだが,複数のメーカーを同時に相手にしているACCESSの大城明子らをNECに掛かり切りにさせることは無理だった。

 林はNECが内製するソフトウエアの開発も担当している。平日はどうしても社内の打ち合わせやバグの修正作業に手を取られてしまう。林は休日をACCESSでのブラウザ開発作業に充てざるを得なかった。土曜日に林はACCESSに向かい,仕様変更やバグの修正に関する要望を伝える。打ち合わせが終われば,直ちに帰社して先方からの返答を待ち構えた。土曜日の深夜になって,大城から回答のメールが届くことは当たり前で,それから早朝まで林の修正作業は続くのだった。

とにかく負けたくなかった

 当初は十分な数の技術者を配していたつもりでも,残業時間はするずると伸びていった。西山の要求する仕様が次々と増えていったからだ。スケジュールの遅れを知りつつも,西山はACCESSの大城に対し,ブラウザの起動時間などについて,厳しい改善要求を出し続けた。

書類

「多分,数あるメーカーの中でNECの要求が一番厳しかったと思います」

 こう西山が断言するほど,西山や林の要求は細部にわたった。大城らACCESSの技術者も逼迫したスケジュールの中で,この挑戦を受けて立った。両者が燃えれば燃えるほど,技術者の勤務時間は青天井に近づいていく。こうした現状を見かねた会社から,西山は再三警告を受けた。西山はできるだけ早い時間に技術者を帰そうと,追い立てるように声をかけて回ったりもした。しかし「バーディーを取る」と意気込む技術者たちは,ひたすら作業に没頭し続けた。

「上司に呼び出されて注意されたこともあったし,組合から調査に来ると警告されたこともありました。もっと技術者を楽にさせてやりたいとは思いました。でも,それは難しかった」

 こう語る西山自身,製造を担当するNEC埼玉に出向し,工場近くのホテルで缶詰生活を送る身だった。いつからか西山は,何時に寝たかを日記につけるのが習慣になっていた。今にして振り返れば,明け方近い時間に寝る日が数週間は続いた。朝は8時30分に工場が動き始める。当然西山も,現場に出て指揮を採らなければならない。

「大変だったのは,ウチだけじゃなかったとは思います。とにかく,製品で他社に負けたくなかったんです」

 そんな折,西山を勇気付けたひと言があった。ACCESSの取締役副社長の鎌田富久がふと漏らした言葉である。

「西山さん。私はね,2番手の会社を1番にするのが好きなんですよ」

 まさに,西山が目指していることだった。今の苦労はすべて,他社を打ち負かすため。ここで妥協したら1番にはなれない。試作機に付けた開発コード名である「バーディー」に恥じぬよう,絶対に1つ上,トップ・シェアに躍り出てみせる。鎌田のひと言は,疲労の極にあった西山を再び奮い立たせた。

=敬称略

―― 次回へ続く ――