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山内氏と内海氏
左はA&Aを創設した山縣氏。内海氏(右)がA&Aに入社したのは,親戚が山縣氏と親しかったため。写真は,1970年代に撮影されたもよう。

 内海は1966年から,Tandy RadioShackの日本製品の購買業務を引き受けていたA&Aジャパンに勤務し,その後1987年に退社するまでバイヤーやマネジャーの立場にあった。その間,単なるバイヤーとしてではなく,日本企業の海外向け製品の企画開発を手助けする役回りを演じた。Tandy社関連企業を離れた後もエレクトロニクス業界とかかわり続け,80歳となった現在も,国内メーカーの中国市場開拓の支援を手掛けている。エレクトロニクス業界での仕事歴は実に,40 年以上に及ぶ。

日本から台湾,韓国,中国へ

 内海の付き合いの広さは,日本国内にとどまらない。購買コストを下げる狙いから,円高の進んだ1970年代後半には日本を飛び出し,台湾,韓国,そして中国へと購買先を広げていったからだ。

 Tandy社との取引をきっかけに育ったアジアのメーカーは無数に存在する。台湾では,今を時めくAcer社をはじめ,Inventec 社,Quanta Computer社,Compal Electronics社といったメーカーの創業関係者はいずれも,電卓メーカー時代に内海と取引があった。今も当時の恩を忘れないと,日本に来るたびに内海の元を訪れる創業者もいる。韓国でも同様で,Samsung Electronics Co.,Ltd.やLG Electronics,Inc.の上層部には,「内海さんの孫弟子がたくさんいる」(Tandy社の元関係者)という。

 実はフィンランドNokia Corp.が携帯電話機事業に進出する礎を築くに当たり,それを支える役回りを務めたのも内海である。Nokia社初の携帯電話機の量産工場のマネジメントを手掛けたからだ。Nokia社とTandy社の合弁会社として1985年に韓国に設立されたTandy Mobira Communication(TMC)社の韓国工場は,その後しばらくNokia社のマザー工場となった。同工場の生産技術に関するノウハウの多くは,内海が連れてきた日本人技術者が持ち込んだものだった。

 内海にかかわった人間は皆,彼の仕事に対する徹底したこだわりぶりを強調する。「単なるバイヤーにとどまらない人物。必要とあれば,メーカーを立ち上げたこともある。今僕が仕事をできているのも,内海さんに徹底して教わったから」(A&Aジャパンで内海の部下だった,バイ・デザイン代表取締役社長の飯塚克美),「とにかくアイデアマン。コンシューマー・エレクトロニクスというものが分かっている,素晴らしい人」(デジタルドメイン代表取締役社長の西和彦)。

 本連載では,内海信二という希代のバイヤーの目を通し,日本のエレクトロニクス産業の海外展開や,アジア地域のメーカーとのかかわりを見つめていきたい。物語はまず,電卓戦争真っ最中の1970年代初めにさかのぼる。=敬称略