PR

 エスノグラフィ手法は、組織的に実践することが前提ではあるが、技術者によっては「個人的に実践してみたい」という人もいるだろう。ペルソナ設計やプロトタイプの作製までは難しくても、フィールドワーク(フィールドでの観察と分析)は実践できる可能性がある。

 実は実践企業の多くでも、組織的な取り組みに入る前に、技術者個人にフィールドワークの基礎を学んでもらう研修を実施している。例えば富士ゼロックスでは、2日間のHCD(Human Centered Design、人間中心設計)講座と1日間のインタビュー講座で、フィールドワークのエッセンスを体験できる演習を技術者などに提供している。

 具体的な内容は後述するが、その前に、フィールドワークとはどのようなものかのイメージをもう少し具体的につかんでおきたい。

 前述の通り、フィールドワークでは事実を抽出することに集中する。そして、人の行動だけではなく、その人を囲むコンテキスト全体に目を向ける。

 コニカミノルタテクノロジーセンター未来文化研究室のメンバーに、観察する時に着目していることを聞いた。内容は図1に示す通りだが、中でも興味深いのは、フィールドにある貼り紙に着目する視点。例えば、貼り紙に「再利用できる紙はココへ収納してください」と書いてあったとしよう。ここから「この会社では紙を節約しようとしている」と推測できる。では、そこにきちんと入れている人はどれだけいるのか。そこから、その職場で働く人と会社の関係性や課題が見えてくる。

図1●観察する時に着目するポイント(コニカミノルタテクノロジーセンター未来文化研究室の例)
メンバーが、観察時に意識しているポイントを書き出した。これらに限定するものではない。メモとイラストは無関係。

 一方、人が物をどうカスタマイズして使っているかに着目するのも面白い。例えば、同研究室のメンバーが、大型印刷機で印刷業務をするフィールドを訪れた際、印刷機の上に板を載せて作業台としている人がいた。はたまた、印刷後の紙が排出される部分に筒状の紙を挿入し、印刷後の紙が床に飛び出ないように工夫しているケースもあったという。顧客は時に、技術者の想像を超えた物の使い方を実践しているものなのだ。

写真に写った「無意識」

図2●技術者の視点を変える研修の事例
[画像のクリックで拡大表示]

 ただし、こうした発見ができるようになるには、少し訓練がいるのは事実だ。富士ゼロックスがインタビュー講座の中で採用している「セルフフォト」という手法は、技術者個人で訓練をするのには打って付けの方法だ〔図2(a)〕。

 やり方は簡単。何かテーマを決めて、自分自身の生活や仕事のシーンを写真に収めていく。「物と人が関わったときは全て記録する」でも、「何か飲んだり食べたりしたときは記録する」でもいい。撮影と同時に、その内容や場所、関わった相手などをノートに書いておくのだ。対象は自分自身ではなくても、仕事場で隣に座っている同僚や家族を対象にしてもいいだろう。

 同講座では、こんなことがあった。セルフフォトをやる前は「オレは仕事で紙は使わない。全部デジタルだ」と豪語していた技術者がいた。ところが、実際に写真に撮ってみると、そこには外部からもらった資料などたくさんの紙が写り込んでいた。この講座で講師を務める同社商品開発部ヒューマンインターフェイスデザイン開発部の蓮池公威氏は、こう解説する。「自分で意識していることは実はあまりあてにならない。セルフフォトを通して『自分で思い込んでいることと事実は違う』ことを体で理解してもらっている」。

「視野が狭かった」

 同様の効果を狙った取り組みは、リコーでも実施している〔図2(b)〕。例えば2011年6月には、画家の渡辺香奈氏の協力を得て、画家がどのように物を見て作品にしているかを体験してもらうワークショップを開催した。まず、「500個のスーパーボールを部屋でばらまいたら、どのように見えるか」を、参加者たちに描いてもらう。その後、実際に500個のスーパーボールをばらまき、飛び交う様子を観察。その後、再び絵を描いてもらうのだ。すると、当初はほとんどの参加者が丸い物体を描いていたのに対し、観察後は丸い物体が行き交う筋の絵などに変わったという。この演習の目的も、思い込みと事実は違うことを認識してもらう点にある。

 「思い込みを捨てる演習」は、裏を返せば技術者たちの思いが強いことを示唆している。大阪ガスの研究所に勤務した元技術者で、現在は大阪ガス行動観察研究所*1所長を務める松波晴人氏は、技術者が陥りやすいワナをこう解説する。「一般に技術者は、『これはこう使ってほしい』という顧客に対する要望や、『あの人がああ行動した理由はこうに違いない』という自身の仮説を相手に押し付けてしまいがちだ。顧客の本音を引き出すには、フィールドの相手に弟子入りする気持ちで望むことが大切だ」。

*1 大阪ガス行動観察研究所 エスノグラフィ手法や人間工学、環境心理学などの分析手法を用いて課題解決サービスを提供する機関。

 日々、技術や物と向き合い、追求するのは技術者の使命だ。しかし、そこにあまりに固執すると逆に視野を狭め、新たな着想の足かせになりかねない。前出のコニカミノルタテクノロジーセンター未来文化研究室の竹田氏は、それを痛いほど思い知っている。「(技術者の時は)上司によく『新しい技術テーマを見つけなさい』と言われて苦しんでいたけれど、(エスノグラフィ手法を実践する)今の自分なら、もっと違った答えを出せていたかもしれない。当時の私は視野が狭かったと思う」と打ち明ける。