電子部品ビジネスの世界は残酷だ。多くのエンジニアと資金を投じて最先端技術を開発し、性能を高めながら外形寸法を半分にしても、決して価格を上げることはできない。実際は、外形寸法を半分にしたうえに価格も下げなければ、顧客には受け入れてもらえない。電子部品ビジネスでは、こうしたウルトラC級の対応が求められるのが普通である。
音叉型水晶振動子とて同じだ。1969年に発売した世界初のクオーツ式腕時計「クオーツアストロン」に搭載された音叉型水晶振動子の開発以降、小型化やコスト・ダウンを年々進めていった。その結果、クオーツ式腕時計の市場は、驚くべきスピードで拡大していく。しかし、市場が拡大すれば参入メーカーが増える。参入メーカーが増えれば、競争が激しくなる。「1975年から1980年のわずか5年間で、音叉型水晶振動子の単価は5分の1程度に下がった」(禰宜田六己)。
成長は早いが競争も激しい市場環境。しかし、諏訪精工舎(現在のセイコーエプソン)にはフォトリソグラフィ技術があった。この技術をベースにして、小型化と低コスト化を実現した製品を矢継ぎ早に市場に投入。1980年代前半には、音叉型水晶振動子業界をリードする世界的な企業へと成長していた。
「俺らは水晶デバイス・メーカーだ」
「世界をリードする音叉型水晶振動子メーカー」。客観的に見ても、その地位に登り詰めたのは間違いない。本来であれば、手放しで喜ぶべき状況であろう。しかし、長野県の伊那に本拠を置く水晶デバイス部門で働く人たちは、この状況にまったく満足していなかった。
その理由は、「水晶デバイス・メーカー」として顧客企業に認識してもらえないことにあった。確かに、事業のスタートは「SEIKO」ブランドの時計に供給する部品事業だった。しかし、1970年代中盤から外販を積極的に推し進め、事業規模はかなり大きくなっており、1980年代前半には「時計メーカーの部品事業」という枠を大きく超えていた。しかし、営業担当者が顧客の元を訪問すると、「お宅は、腕時計メーカーの水晶デバイス部門だからね」という扱いを受けるケースが多かった。このころから、水晶デバイス部門に「事業をさらに拡大させて、名実ともに独立した事業部門として認知してもらいたい」という野心が芽生えていたのだ。
なぜ、音叉型水晶振動子の世界市場をほぼ制覇したにもかかわらず、水晶デバイス・メーカーとして認められないのか。その答えは簡単だった。水晶デバイスにとって、音叉型水晶振動子市場はメインの土俵ではなかったからだ。メインの土俵は、通信機器などに使われるAT型水晶振動子/発振器の市場である。当時の諏訪精工舎はまだ、この市場に参入していなかった。
しかも1980年代に入って、AT型水晶振動子/発振器は急速に市場規模を伸ばしていた。それまでは、業務用通信機器などに市場が限定されていたが、その当時に始まった「デジタル化の波」が民生用電子機器に押し寄せていたからだ。さらに、パーソナル・コンピュータ(パソコン)という新しい電子機器の市場もものすごい勢いで拡大している。
機は熟した。このタイミングを逃す手はない。「AT型水晶振動子/発振器市場への参入。そして、この市場でもトップを取る」。これで社内の意見はまとまった。