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 林睦夫氏は、極度な緊張状態にあった。

 2005年1月9日。林氏は、上司の宮沢要氏 とともに、神奈川県高座郡にある相模線の寒川駅に降り立った。一緒に降りた乗客は十数人。初詣の時期であれば、隣駅にある寒川神社にお参りする人々でかなり賑やかになるのだが、松が明けた9日ともなると人波はまばらとなる。ホームに北風が吹き抜けた。とても寒く感じた。

 寒く感じた理由はそれだけではなかった。とても重要な任務を背負っているという緊張感。これが寒さを増長させていたようだ。体の芯が「ブルッ」と震える。「風邪を引いたかな?」。しかし、休憩をとっている暇はなかった。急いでタクシーを止めて、宮沢氏とともに目的地へと向かった。

業界を揺るがす大合併

 その1カ月半前の2004年11月末。水晶デバイス業界に衝撃的なニュースが走った。セイコーエプソンと東洋通信機の水晶デバイス事業を2005年10月に統合するというニュースである。両社とも水晶デバイス業界の老舗(しにせ)であり、これまで互いに切磋琢磨しながら、業界を引っ張ってきた。その2社が1つの会社になる。水晶デバイス業界に詳しい人であれば、耳を疑うニュースだった。

 この統合話が持ち上がったのは2003年ころだ。それ以降、両社の経営トップの間で、頻繁に話し合いが持たれるようになった。なぜ、「禁断の統合」を目指すようになったのか。その背景には、水晶デバイス業界がさらされていた厳しい経営環境があった。

 2001年にITバブルが弾けた。その結果、コンピュータや通信機器の売り上げが世界全体で大きく下落した。それらに搭載される水晶デバイスも、例外なく売り上げがダウン。そこに、新たなライバル企業として、台湾勢がなだれ込んできたのだ。台湾勢の売り文句は「低価格」である。もちろん、高性能品に関しては日本メーカーに、まだかなりのアドバンテージがあった。しかし、コモディティ品の性能には、あまり差がない。このため、コモディティ品が価格競争にさらされ、収益が徐々に悪化していったのだ。

 「このままではジリ貧。何らかの手を打たなければ・・・」。こうした思いから、両社は統合を目指すことになった。ただし、「何らかの手」は、守りだけではない。両社とも、統合を機に巻き返しを図るための「攻めの一手」を模索していた。水晶デバイスという同じ分野の製品を扱う両社だが、それぞれが抱える顧客や技術には違いがあり、互いに補間関係にあった。エプソンが守備範囲とする顧客は時計や民生機器。一方、東洋通信機は通信機器や産業用電子機器。技術については、セイコーエプソンは、フォトリソグラフィー技術や微細加工技術を得意としており、東洋通信機は水晶デバイスの基礎理論に精通していた。

 こうした両社の強みを掛け合わせれば、きっと「攻めの一手」を生み出せるはず。それは何か。2004年末から2005年10月までの約10カ月間。この間に、斬新なアイデアを生み出し、「統合時の目玉」とする。これが、両社の経営陣が描いていた青写真だった。