――きれいなGaN結晶ができたとき、指導教官であった赤崎先生は喜ばれましたか?
天野 すぐに赤崎先生にも持っていきましたが、意外と冷静でした。そのとき、すぐにX線で測ってもらいなさいという指示をいただきました。結晶の品質を評価する「X線ロッキングカーブ」を見るためです。当時、名古屋大学には残念ながらそういった装置を持っている研究室が近くになかったので、大阪府立大学の先生にお願いして一緒に測定させてもらいました。
結晶というのは見た目がいいだけではやはり認められない。X線ロッキングカーブの半値幅も狭くないといけないし、電気的特性にもよくなければいけない。ですので、必要な特性を調べる計測はすべて行いました。
その結果はすべてよかった。今までまったく得られたことのなかった結晶でした。
――その後、p型GaNが1989年にできました。

天野 きれいなGaN結晶ができたときには、p型はすぐにできると思っていました。ところが、当時p型のドーパント材料として使っていた亜鉛(Zn)をドーピングしていろいろ濃度制御したり、成長温度を制御したりしてたくさん入るようにしてもp型にならなかった。ですので、p型GaNができるまで、予想以上にだいぶ時間がかかりました。今でもp型にならないんですよ、Znは。
――きれいなGaN結晶ができてからp型GaN結晶ができるまで4年ほど掛かったことになります。その間、つらくなかったですか。
なかなかp型はできませんでしたが、それでもさまざまなことを試すと、GaNの物性がいろいろと分かるようになり、自分としては非常に楽しかったです。
こうした成果も発表していました。ところが、世間はGaNに関心がない。ドクターの2年生のころでしょうか。応用物理学会が名古屋大学で開催されたときです。4号館で私の成果発表がありました。そこに勇んで行ったんですけど、会場にいたのがたったの4人だけ(笑)。私と赤崎先生と(セッションの)座長ともう1名です。研究自体は楽しかったんですけど、その会場の様子を見て、「研究者としての芽はないかな」と思いました。当時は、GaNに対して全然見向きもされていなかったわけです。
――そのときの目標は、やはり青色LEDを作るというところにあったのか、それともこのまま物性を極めていければいいと思っていたのか、どちらでしょうか。
天野 青色LEDよりも、その先にある青色半導体レーザーを実現するのが目標でした。LEDというのはレーザーができれば、プロセスとしてはむしろ簡単なんですよ。だからレーザーさえできれば、世間の人も認めてくれると思っていました。