宇宙の外は、どうなっているのか。人は死んだらどこへ行くのか。子供の頃は、世界を取り巻く果てしない謎に思いを巡らすものです。筆者にとって、そうした疑問の1つが「どこまでが自分なのか」でした。感覚のない爪の先は自分の体と言えるのか。髪の毛は抜けた瞬間に自分ではなくなるのか。食べ物が自分になるのはいつなのか。新陳代謝で細胞が入れ替わった自分は、前の自分と同じなのか――。
これから生まれてくる子供たちにとって、悩みはさらに深まりそうです。彼らを惑わせるのはウエアラブル機器の進化。時計型やメガネ型の端末が姿をさらに変えて、人の体表すべてを覆おうとしています。目指す先はセンサー機能を実装した人工の皮膚です。羽根のように軽く薄く、伸縮も可能なそれで、脳や心臓をくるんでしまう発想もあるとか。狙いは、人が発するあらゆる生体情報をくまなく集めること。いわば過去から現在に至る、赤裸々な自分の姿が仮想空間に丸ごと写像されるわけです。
果たしてこのデータは、自分なのか、自分ではないのか。データの利用法によっては、「自分性」は消し去られます。いわゆるビッグデータ処理では、自分のデータは匿名の1人分として、他の人々のデータと一緒に統計処理されます。そこから得られる知見は、健康管理や疾病の発見などで多くの人びとに貢献するわけです。
一方で、自分自身の体調や疾患を詳しく知りたい場合はどうでしょう。そのとき、取りためた綿密な生体データはデジタルの自分として振る舞い、検査や操作の対象になるはずです。ここで1つの疑問がわきます。こうしたデータが自分の一部だとしたら、どこまで他人の手に委ねるべきなのか。現実の肉体であれば(知らぬ間に指紋や体液を奪われる懸念はあるものの)、基本的に自分の管理下に置けます。ところが自分がデジタルになった瞬間、複製や伝送を通じて世界中に拡散しかねません。
筆者としては、デジタルの自分もできれば手元にいてくれた方が安心です。調子が悪い時だけデジタルの往診を頼んだり、あるいは自分専用の医師やトレーナーがそこにいて、いつでも相談に乗ってくれたりした方が。こうした相談役こそ、すっかり廃れてしまったPDA(personal digital assistant)という言葉が指すものなのかもしれません。
有限の時間を生きる人間と永遠に残りうるデータにはいつかは別れのときがきます。自分がこの世を去ったら、名前をなくしたデジタルデータは人類全体のデータ全体に同化して、末長く役立つ道を選ぶことになりそうです。