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被災者向け固定電話が配備されたのは、震災から1〜2週間後だった
被災者向け固定電話が配備されたのは、震災から1〜2週間後だった
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 「電話もネットも使えず、停電したので、テレビも見られない。情報を得られたのは、たまたま保管してあったラジカセで聞けたラジオ放送だけだった」。宮城県の沿岸部に近い避難所に常駐する職員は、3月11日当時の状況をこう語る。被災から3日間、避難所に情報を届ける情報通信インフラはどのような状況だったのか。避難所職員の証言や通信事業者などへの取材をもとにまとめた。

 *【震災、そのとき情報通信は(1)】へのリンクはこちら

 「地震による建物の被害は少なかったが、すぐに停電が起きた。外部からの電源供給が必要な機器、テレビやデスクトップ型パソコン、プリンターは使えなくなった。ノート型パソコンは充電池がある分使えるが、数時間しか持たない。建物には非常用発電機が備えられていたが、何故か作動しなかった」

 「15時過ぎには、固定電話や携帯電話で通話ができなくなった。施設の公衆電話は地震で落下して壊れていた。携帯電話のメールだけは使えたが、じきにそれも使えなくなった」

 音声通話が使えなくなったのは、安否確認を求める電話が殺到し、電話がつながりにくくなる「輻輳(ふくそう)」が発生したため。通信事業者は、交換局や基幹網の容量がパンクするのを防ぐため、通話規制を実施して一般回線の利用を制限した。

 *固定電話、携帯電話とも、停電が発生してもしばらくは通話できる場合がある。固定電話は、NTT東日本/西日本の交換局から直流48Vの電源が給電されている。ただし、FAX搭載機やIP電話など、外部電源が必要な電話機は使えなくなる

 携帯電話のメールなどデータ通信には音声通話ほどの規制はかからなかった。だが、停電から5~8時間ほど経つと、周囲の基地局の蓄電池が次々に切れ、データ通信も使えなくなったとみられる。

 「その日、ほぼ唯一の情報入手手段だったのがラジオだ。たまたま、AMラジオが聴けるラジカセを保管していたのが幸いした。ワンセグ放送も視聴はできたが 携帯電話機の充電池の消耗が怖くて、ほとんど見ることはできなかった」

 ワンセグ放送は、据え置き型のテレビが停電で見られない中、情報取得手段の1つとして現地でも活躍した。だが、携帯電話機では電池切れの不安があり、長時間は利用できなかったようだ。自家用車にワンセグ視聴機能を持っていた一部の住民は、自動車のガソリンが続く限りワンセグ放送を視聴できたという。

 ただし、郊外の避難所では「そもそもワンセグ・サービスの圏外である箇所が多かった」(宮城県 企画部 情報産業振興室 技術主査(当時)の小熊博氏)という。地上デジタル放送は視聴できる地域でも、ワンセグ放送は携帯電話のアンテナの利得の問題から視聴できないことがある。

 「宮城県のAMラジオ局は、NHK仙台と東北放送の2つ。なかでも東北放送は地元の情報を流してくれる貴重な存在だった。だが12日朝には、なぜか東北放送が聞こえなくなっていた」

 東北放送のラジオ放送が途絶えたのは、同社のラジオ送信所が津波や停電の被害を受けたためだ。東北放送は、宮城県全域をカバーする20kW出力のラジオ送信所を仙台市若林区に保有していた。この送信局は海岸線から3km内陸の地点にあったが、仙台平野を襲った津波の直撃を受けたという。津波は海岸線から約4キロ内陸にまで達した。

 東北放送のラジオ局は、浸水、停電の憂き目に遭いながらも、非常用発電機や送信機は生き残り、送信を続けた。だが翌日、12日午前4時半には発電機の燃料であるA重油が底をつき、放送が止まってしまった。送信所の周囲は津波警報が発令中だったこともあり、職員が送信所に近寄ることはできなかった。「ただ、燃料が切れるのを見守ることしかできなかった」(東北放送)という。

 東北放送は、災害に備えた非常用アンテナを仙台市内に設置したが、出力は100Wで周囲10kmしか届かなかった。八方手を尽くして燃料を調達し、若林区の送信所が機能を回復したのは3日後、15日12:50のことだった。