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日立製作所 理事で研究開発グループ技師長の矢野和男さんと、慶應義塾大学大学院の前野隆司教授による対談の第3回。「AIは物理だ」と話す矢野さん。これまでシンプルな方程式で森羅万象を表現しようと挑んできた物理学の対象領域が、AI(人工知能)の進化によって社会や経済、人間関係などに広がろうとしているからだ。その視点で捉えると、「AIは始まったばかり。多くの人にまだチャンスがある」と矢野さんは見ている。
矢野さん(左)と前野教授(写真:加藤康)
矢野さん(左)と前野教授(写真:加藤康)

「そのリソースのすべてをAIに張ります」

前野 日立製作所のAI技術「H」のことを聞きたいのですが、Hってディープラーニングなんですか。

※H=日立製作所が開発した人工知能「Hitachi AI Technology/H」。

矢野 最初に作ったHは、ディープラーニングとは少し違います。ディープラーニングは、目的に合わせて尺取り虫のようにニューラルネットワークのパラメーターを調整をしていきます。

 一方、遺伝や進化は、全く異なるアプローチで生物のように非常に複雑なものを作っています。遺伝子は4種類の塩基(ATCG)が何百万個も並んだものです。これはデジタルのコード、つまり情報の組み合わせでできています。ある種のインテリジェントなランダムさによって配列の組み合わせを探索しているわけです。

 生物は、神経網によるパラメーター調整と、無限の空間を探索することによる遺伝・進化の2つの組み合わせで成り立っている。私は、こう考えています。これらの要素を組み込んでシンプルにし、さまざまなことに使えるようにしようと考えて開発したのが最初のHです。その後、その一部をディープラーニングが包含するような形に発展しました。

前野 開発したのは、いつ頃ですか。

矢野 2011年です。私は2003年からデータ関連の研究を本格化させたのですが、2007年頃に「フェーズが変わった」と感じました。これからAIがもっと注目されるようになると考えたんです。

 私は逆張りをするのが好きで、人と同じことをやっても面白くない。当時、もちろんAI関連の研究をしている人はいましたが、AI研究はどちらかといえば下火で、AI研究者自身も「人工知能」「AI」という言葉を避ける雰囲気がありました。でも、私は「すべてがAIになる」というストーリーを描いた資料を2011~2012年に作りました。当時は信じる人なんかいませんでしたけどね。

 ちょうど、私はかなり大きな金額の先行研究の予算を預かっていて、「そのリソースのすべてをAIに張ります」と宣言しました。会社の中では大ブーイングでしたけれども…。

前野 AIに“賭けた”わけですね。その資料を見てみたいです。

矢野 私のオフィスの壁に張ってありますよ。今見ても全然古くありません。私はもともと理論物理の出身で、正直に言えば、物理学はあらゆる科学のトップだと思っています。物理学帝国主義と嫌われる面もありますが(笑)。だから、AIやデータをはじめ、今までは分類学的にやっていた研究が統合されて、あらゆる学問は物理になる。

 データを扱うときの視点は、まさに理論物理を研究するときの目で見ています。AIに出てくる概念は理論物理の概念がほとんどなので、研究の中心にはもともと物理出身の人が多いですし、能力面で引け目を感じることは全くありません。

前野 そういうことですか。僕は機械工学科、つまり応用物理学の一分野の出身なので、理論物理には引け目を感じているんですけど(笑)。

矢野 物理はテクニックではありません。最近は数理人材といいますか、理論物理や数学を学ぶ人材をどうやって増やし、育てるかという議論が国レベルでなされています。抽象的な考え方やデータを数式できちんと理解するということについて、すごい能力を持っている研究者が今は埋もれているんです。日立も理論物理の研究者を結構採用しているんですよ。

前野 AIやデータに関する分野への注目が高まっているからですか。

矢野 ええ。その辺はずいぶん変わりつつあります。

前野 統一理論のような理論物理のど真ん中を研究していた人が、AIやデータを持たれるのは意外に感じます。

矢野 私は、AIは物理だと考えています。もともと物理は、よりシンプルな方程式で森羅万象を表現しようとしてきました。AIやデータサイエンスの進歩によって、その対象が社会や経済、人間関係などに広がったわけです。

前野 そういう意味では、これまで物理が到達できなかった分野が人文科学や社会科学と呼ばれていたということですね。

矢野 そうですね。例えば、かつてはウサギやゾウ、魚を研究している人は、「ウサギについてはこう」「ゾウについてはこう」「魚についてはこう」と分類して論じなければならなかった。けれども、今ではすべて「進化」や「自然淘汰」、さらには「遺伝子」などをベースに学問的に統合されていますよね。