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インターネットの商用利用へ

 NSFは米国の政府機関である。NSFネットは学術研究を支援するためのネットワークだ。その商用利用は禁止されていた。しかし、1992年に「科学と先進技術法」が成立、「教育・研究活動のサポート能力を総体として増進しなければならない」という条件付きで、NSFネットの商用利用が解禁される[脇、2003、pp.274-285]。

 一方、大小さまざまの商用ネットワーク活動が1980年代には、前記のように盛んになる。これらのネットワークはNSFネットには接続できなかった。このため商用ネットワーク独自のインターネットサービスが始まる。

 これはNSFネットを経由しなくても、TCP/IPでパケット交換をするネットワーク間通信が可能になったことを意味する[喜多、2005、p.265]。「ネットワークのネットワーク」としてのインターネットの時代が、いよいよ本格的に始まる。

 伝統的電気通信業界は当初、インターネットを軽視していた。1980年代半ばに、米国でも日本でも通信が自由化される。同時期に伝統的回線通信網のデジタル化が完成する。このデジタル回線網をベースに、ISDN(Integrated Services Digital Network)などを用いた新しい通信サービスが実現するはずだった。

 しかし、現実に起こったことは、まるで違う。自由化後の通信サービスは携帯電話とインターネットを軸に展開していく。ISDNは短命だった。

日本のインターネット活動

 1980年ごろ、慶應義塾大学の大学院生だった村井純はマンホールの中に潜り込み、下水道に沿って通信回線を引き、2つの研究室のコンピューターをつなぐ[村井、1995a、p.83]。博士課程を修了して東京工業大学に勤務した村井は、今度は東京大学、東京工業大学、慶應義塾大学の3大学を電話回線で結ぶ。JUNETの誕生だ。ときは1984年の後半である。通信自由化(1985年4月)の少し前だ。かなり危ない橋を渡る作業だったらしい。

 つながると、みな使い始める。つなげたいという希望が続々と出てくる。たくさんのコンピューターが次々に接続されていく[村井、1995a、pp.91-97]。参加者が増えると効用が増す、というネットワーク外部性が働き始めたのだろう。

 この間1981年には東北大学が、ハワイのアロハネット経由でARPAネットに接続した。JUNETも1986年に米国のユーズネットとつながる。翌1987年にはCSネットにも接続された。

 1988年にはWIDEプロジェクトが始まる。WIDEとは「Widely Integrated Distributed Environment」の略である。接続に専用回線を導入するための資金を集めること、これを最大の目的とするプロジェクトだった[村井、1995b、pp.155-157]。やがて国内的にも国際的にも、専用回線による接続が次々に実現する。

 1980年代には日本でも個人にパソコンが普及し始める。1985年に通信が自由化され、個人が電話回線を介してネットワークに接続することが容易になる。やがて商用パソコン通信サービスが始まる。パソコン通信は中央のホストコンピューターに、パソコンが放射状につながるネットワークである。他のパソコン通信への接続は原則として不可。電子メールのやりとりも、同じホストを共有するパソコン同士に限定される。

 これを克服するべく、前記WIDEのネットワークとパソコン通信との接続が実現、それぞれのパソコン通信の垣根を超えて、電子メールのやりとりが可能になった[村井、1995a、p.123]。

 日本固有の問題に日本語の扱いがある。国際的なネットワーク環境のなかで日本語をどう扱うか。当時のUNIXでは文字は1バイト(8ビット)と決まっていた。これで表せる文字種は最大256文字だ。日本語や中国語などの文字種の多い言語は、少なくとも2バイトはないと文字を表せない。2バイト(16ビット)あれば、最大65536種の文字が表せる。

 村井たちは辛抱強く長い時間をかけ、国際コンピューターコミュニティーに、マルチバイト文字の必要性を認めさせる[村井、1995b、pp.140-145]。こうしてインターネットのなかで、さまざまな言語が、それぞれの言語表示で使えるようになっていった。

 この経験を踏まえ村井は、インターネットは多様な文化と言語への可能性を持っているとし、こう述べる。「基本的にはそれぞれの人間が必要な言語を使えばよいと感じています(中酪)。これまで以上に英語ばかりが幅をきかすようになるという見方もあるようですが、技術的には逆の可能性を持っているのです」[村井、1995b、pp.131-133]。

WWW、ブラウザー、検索エンジン、ブロードバンド接続

 1990年代に入ると、WWW(World Wide Web)やブラウザーが次々に開発され、インターネットを閲覧することが容易になる。おかげでインターネットは、一般人が仕事や楽しみのために使えるものになった。それはインターネットが、産業や暮らしのインフラストラクチャーになった、ということでもある。検索エンジンもまた、私たちのインターネットへの接し方を変えた。

 WWWは英国人ティム・バーナーズ=リー(Tim Berners-Lee=TBL)が1990年に開発した。スイスにある欧州素粒子物理学研究所(CERN)の、プロジェクト管理システムが原型である。URL、HTTP、HTMLの原型もTBLによる[脇、2003、pp.250-259]。

 WWWの登場を受け、アンドリーセン(Marc Andreesen)は米イリノイ大学在籍中に、ブラウザー「モザイク」を開発する。モザイクは1993年2月にインターネットに公開され、たちまち数十万本がダウンロードされた。1994年には、モザイクを原型とする「ネットスケープナビゲーター」が商品化され、一時はブラウザー市場の85%を制したという[脇、2003、pp.259-271]。

 その後、米マイクロソフト社の「インターネットエクプローラー」の猛追を受け、ネットスケープナビゲーターはやがて市場から姿を消す。現在は、いくつものブラウザーが覇を競っている。

 ブラウザー開発と前後して、1990年代半ばには検索エンジンが登場する。この分野では米グーグル社の存在感が大きい。私たちは調べものをするとき、まずインターネットで検索するようになった。そして世界各地に散在する情報を手に入れる。

 本連載第9回で紹介したように、リックライダーは1965年に『未来の図書館』[Licklider, 1965]を構想した。その未来の図書館では、小型の対話型コンピューターから成る端末が大規模ネットワークにつながっていて、世界各地の情報を手元で見ることができる。この1965年時点の『未来の図書館』は今、現実である。

※連載第9回は「未来の図書館、夢にとりつかれた男」を参照

 インターネットが産業や暮らしに広がるためには、高速の接続環境を、相対的に安い価格で利用できることが重要である。1990年代には、多くの個人ユーザーは電話回線を利用し、ダイアルアップ方式でインターネットに接続していた。接続時間に応じて電話料金がかかるため、なるべく速やかに接続を断つべく努力する。これでは利用は広がらない。

 それから10年も経たないうちに、ブロードバンド回線に常時接続したまま利用するという現在の環境になった。光ファイバー通信によるブロードバンド回線の性能・普及・料金において、日本は世界最高の水準にあるという[電電、2010]。