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インターネット時代にもプロのジャーナリストは必要

 インターネットがあれば、旧来メディアがつぶれたって困らないという考えがある。ブログやSNSなら報道機関に所属しなくてもニュースを発信できる。だから伝統メディア企業も、プロのジャーナリスト集団も要らない、そういう意見が出てきた。しかし、民主主義社会を健全に保つには、プロのジャーナリストが欠かせない、私はそう考える。

 ジャーナリズムの存在意義を煎じ詰めると、最後に残るのは、公権力の監視と批判である。それは民主主義に不可欠だ。常時監視されていることを、公権力に意識させなければならない。監視されていない権力は、必ず腐敗する。公権力を「常時」監視し続けるためには、その仕事を職業とする人が要る。その仕事は、他の職業の片手間では難しい。

 公権力の監視と批判には調査報道が欠かせない。そこではジャーナリストがチームを組んで仕事をする必要がある。そのためにはジャーナリストが、その本業で生活できなければならない。またチームを組んで調査するには費用もかかる。

 先に述べたように、広告に依存する伝統的メディアは存続困難になってきた。公権力を監視・批判するプロのジャーナリスト集団をどうしたら維持できるか。

 米国では寄付ベースの財団の支援を受け、非営利組織(NPO)がジャーナリズムを担う動きがある。民主主義維持に不可欠なジャーナリズムを支援するためには、寄付をいとわない。そう考える人たちが、米国には一定数存在するらしい。

 出版などを含めて考えると、インターネット時代のジャーナリズム活動の資金には、多様な可能性がある。先に触れたクラウドファンディングもその1つだろう。すなわち少額の資金を、大勢の人に出資してもらうのである。

 日本の新聞社や放送局も広告減少には苦しんでいる。しかし、米国ほどには危機が顕在化していない。理由の1つは、日本の新聞社は購読料収入が米国の新聞より多いことだ。宅配制度のおかげである。とはいえ日本でも新聞購読者数は減少している。若年層は新聞をとっていない。

 日本の新聞社の多くは、テレビ放送局を系列化している。また資産価値の高い不動産を保有する新聞社が多い。この不動産を活用した多角経営によって、新聞やテレビの事業不振を補うことが可能だ。これも日本で危機が顕在化しない理由の1つだろう。しかしメディア企業の経営安定が、健全なジャーナリズム活動を保証するわけではない。

 日本のジャーナリズムのあり方には、インターネットの影響とは別の批判が少なくない(例えば[ファクラー、2012]など)。ここでは、いくつか例を挙げるに留める。いずれも公権力批判というジャーナリズム本来の機能発揮の妨げになっている。

①記者クラブが公権力と大メディアの相互扶助機関となっている。
②ジャーナリストとしての行動より、所属会社の社員としての行動を優先する。
③発表報道が多く、署名記事が少ない。

オープンソース活動──衆知を集めて良質の知に転化

 不特定多数が情報を発信する。その情報を巡って不特定多数がコメントを返す。そこからさらに情報の応酬が続いて、議論として発展していく。こうなると、それならいっそ、不特定多数を巻き込んで衆知を集めよう。こういう考えが出てくるだろう。これがオープンソース活動である。

 ウェブ上には既に膨大な知識が蓄積されている。それを自分なりに整理して、他者と共有できるようになってきた。不特定多数の人間同士の知的交流が可能になったということである。それはまた、衆知を集めて良質の知に転化することが、ウェブ上で可能になってきたことを意味する。

 ある人が自分の書いたソフトウエアのソースコードをネット上に公開する。そうすると世界中の不特定多数のソフトウエア開発者(それを職業としている人とは限らない)が、自由にそれを改良する。結果を、またネットに公開する。これを繰り返し、積み上げていくことで、大規模なソフトウエアが短期間に開発される。こうして出来上がったソフトウエアの1つがリナックスである。

 以上の活動はすべて無償で行われる。またソフトウエア本体はウェブに無償で公開されている。だから、この販売はビジネスにならない。けれども、優れたソフトウエアが出来たとなれば、それを基にビジネスを立ち上げることが可能になる。

 例えば、ソフトウエア本体が出来上がっていても、それを自分のパソコンにインストールするには専門知識が必要な場合がある。そのインストールをサービスとして請け負うことがビジネスになり得る。周辺機器を動かすためのソフトウエアを開発し、この販売をビジネスにすることも考えられる。

 こうしてリナックス周辺には、かなりのビジネスが立ち上がった。もちろん実際には、もっと複雑で様々であり、非営利のネットワークコミュニティーと営利企業がどう連携するか、という本質的な問題が存在する[國領ほか、2000]。

 オープンソース活動の成果として、私たちは既に、少なくともリナックス(ソフトウエア)とウィキペディア(百科事典)を手にしている。けれども「ウェブ上の情報なんて、衆知ではなく衆愚だ。専門家の介入なしに良質の知への転化なんてあり得ない」という批判も根強い。

 ウィキペディアは誰もがネット上で編集に参加できる百科事典である。誰でも加筆修正ができる。しかしこの特徴によって「編集合戦」が起こることがある。

 ある人Aが書いた内容を、別人Bが書き換えてしまう。Aの書いた内容が気に入らないからである。それをAが元に戻す。それをまたBが書き換える。こうなると収拾が付かない。こういうときに介入するのが「管理者」である。一時的に、その項目だけ閉鎖して編集を禁止する。論争が決着せず、そのままになる項目もある。

 「それでも全体としては百科事典的ないい記事が増えている。良い方向に働く力が微妙に勝っている」。3年以上管理者を続けたプログラマーの今泉誠はそう語る。さらに「参加する人が多ければ多いほど、よりよくなると感じる」と続ける[安田、2006]。

 今泉の言葉はインターネットの未来にとって本質的である。技術の進歩は必ず、インターネット上の参加者を多くする方向に働く。一時的に混乱はあっても、良い方向の力が微妙に勝つ。そして参加者が多くなるほど良くなる。それならインターネットの未来は、信ずるに足りるだろう。

 ただし上に触れた「一時的」混乱が、どの程度の時間でおさまるのか、この問題は深刻である。最終的には不特定多数の知恵によって良い方向の力が勝つとしても、過渡的とはいえ一時的混乱が長く続けば、そのなかで生きる人間は傷つく。これは以下に述べる民主主義の問題でもある。