PR

米国における産学連携の推移

 米国の産学連携はいま、世界のお手本である。「米国では、かくかくしかじか、それにひきかえ日本では、…」。こんな嘆きをひんぱんに聞く。

 実際には米国の産学連携も、かなりの紆余曲折を経て、現在に至っている。産学連携が盛んだった時期もあれば、それほどではなかった時期もある。産学連携を肯定する時代もあれば、それを恥じて卑下した時代もあった。

 既に連載前回で紹介したように、19世紀後半の米国には、高等教育機関として、大別すると2種類のカレッジがあった。一方のカレッジは、富裕な家庭の子弟を一人前の「紳士」に仕立て上げる寄宿舎学校である[吉見、2011年、p.99]。他方の「ランドグラント・カレッジ(land-grant colleges)」は、一種の職業訓練学校である。各州の地場産業向け人材を養成した。

 ランドグラント・カレッジの多くは、後に州立大学となる。20世紀前半の州立大学は地域社会のニーズに敏感だった。例えば「イリノイ州のいかなる業界も政府部局も、イリノイ大学内に自分たち自身の学科を持っていた」[ローゼンバーグほか、1998、p.118]。ランドグラント・カレッジと州立大学に関する限り、米国の高等教育機関は、19世紀後半から20世紀の前半、産学官連携の優等生である。

 同じ時期、米国は大学院を発明した。1876年、ジョンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins University)は、その創設にあたり、「大学院(graduate school)」を設置する。この大学院では、ドイツの大学のゼミナールと同じく、「研究を通じての教育」が実施された。ここから米国大学の革新が始まる[吉見、2011、p.104]。

 20世紀前半のうちに、米国の大学は、工学と応用科学の新しい分野を大学内に組み込む。化学工学、電気工学、航空工学などが、米国の大学における研究分野として確立するのはこの時期である。こういった新しい学問分野の成長は企業研究所の増加を促し、企業採用の大学院卒技術者や科学者を増やした[ローゼンバーグほか、1998、p.119]。

 第2次世界大戦後には、大学の研究における連邦政府の役割が大きくなる。大学の科学研究は基礎研究にシフトした。米国の大学は、基礎研究と大学院教育のセンターとなったのである。1960年代の半ばまでには、この米国システムが、科学のほとんどの分野で一流になる。その成功を示す最良の指標は、欧州から米国への大学院留学生の流れである。戦前は逆の状況にあった[ローゼンバーグほか、1998、p.124]。

 第2次世界大戦後には、地場産業を助けることを直接の目的とした研究は衰える。かつては、これこそが米国の大学における産学共同研究だった。しかし大学の研究は、科学上のブレークスルーにつながるものであるべきだという考えが支配的になっていった[ローゼンバーグほか、1998、p.126]。

 この時期は産学連携という視点から見ると、不活発な時代である。大学研究費の出所としては連邦政府が大きく、産業界は小さい。産業界は産学連携ではなく、自前の中央研究所で基礎研究に励む。ときはまさに、リニアモデルと中央研究所の黄金時代だった。

 1970年代になると、産学連携への反転が始まる。この反転をけん引したのは西海岸、特にシリコンバレーである。「中央研究所の時代から産学連携の時代へ」という転換は、米国では「東海岸から西海岸へ」という舞台の移動、「大企業からベンチャーへ」という主役交代と連動している。

 こうして私たちは、本稿冒頭の状況に戻ってきた。

産と学の距離は、欧米より日本で近かった

 1980年ごろから欧米に起こった大学革命の波が日本に及ぶのは遅かった。とはいえ21世紀の現在は、日本でも産学連携や大学発ベンチャーへの期待が大きい。その点、世界の他地域と大差ない。

 しかし、日本では途中経過が違う。1980年代後半のバブル経済華やかなりし頃、日本を基礎研究ブームが覆う。リニアモデルと中央研究所の時代の火が欧米で消えようとするとき、バブルの日本では逆に燃えさかってしまった。

 その日本でも、バブル崩壊とともに基礎研究ブームは雲散霧消する。そして欧米が大学を、産業的価値の源泉に位置づけるようになったことを、ようやく知る。こうして1990年代後半から日本でも、産学関係の再構築と大学改革が始まる。

 しかしそこへ行く前に、日本における産業技術開発体制と大学の関係を、少し長い時間軸の上において眺めておこう。

 明治政府は鉄道や電信の建設を急ぐ。国家目標は富国強兵である。技術者養成は急務だ。1871(明治4)年、明治政府は工部省の1部局として工学寮を設置する。この工部省工学寮は技術者を一元的に養成しようとし、工学教育のための学校を1874年に開校した。この学校は1876年に工部大学校と呼ばれるようになる。

 工部大学校は、その原案をフランスのエコールポリテクニークに仰いでいるという[村上、1986、p.119]。官庁直属で、その官庁が必要とする技術者の養成機関という性格は、確かに大学より、フランスのグランドゼコールに近い[天野、2009、pp.32-33]。ただし工部大学校における教育内容は、スコットランドの大学、とりわけグラスゴー大学(University of Glasgow)の影響を強く受ける注1)

 工部大学校は1886(明治19)年、帝国大学に統合される注2)。統合された帝国大学工科大学は、総合大学(university)のなかの工学部としては、世界初とされている。この結果、19世紀末という時点で、産学官のいずれにおいても、学士号を持った技術者が仕事をすることになる。この状況は当時の欧米では、およそ考えられず、ほとんど世界でただ1つ、日本だけのことだった[村上、1994、p.56]注3)

 その意味で日本では、大学と産業界の距離が、欧米に比べると近かったといえよう。この時期に帝国大学を卒業した工学士は、官庁、大学・研究所、民間企業の間を活発に移動したという[森川、1975、pp.21-23]。

 また日本では、技術者の社会的地位が欧米に比して高い[西村、2003、p.203]。その理由の1つに、帝国大学工科大学の学生に武士の子弟が多かったことが挙げられるという。「彼らはハングリーであったが、世界でも例外的に社会的出自は高かった」[中山、1995、p.162]。

 大学ではないが、1917(大正6)年に財団法人として設立された理化学研究所は、その研究成果をもとに多数のベンチャー企業を起こした。また3代目所長の大河内正敏は理化学興業株式会社を設立し、理化学研究所が生み出した特許を売る努力をする。いま大学に期待されている活動を、早くに展開していたわけである[有馬、2002]。

大学院修士課程の存在感が日本では突出して大きくなる

 第2次世界大戦後しばらくは、技術に関して日本企業の目は海外に向く。技術導入が最大の関心事である。日本の大学の研究成果への期待はほとんどなかった。大学は大学で、戦争による破壊からの復活に忙しく、海外情報の獲得に必死である。産学連携があったとすれば、それは海外情報の交換だった。

 1960年代初頭の日本企業に中央研究所ブームが起こる(連載前回参照)。中央研究所ブームは理工科ブームと時期が重なっている。大学が供給する理工系卒の人材を、企業は争って求めた。

 この時期に日本の大学では、特に工学系で大学院修士課程の存在感が高まる。中央研究所の研究者として、大学院修士課程を修了した「修士」が、企業に歓迎された。対応して修士課程への進学率が工学系では高まる。定員も増える。大学院修士課程を修了して企業に就職する──これは、大学と企業のインタフェースとして、工学系ではしっかり定着し、現在に至っている。

 繰り返し指摘してきたように、企業の中央研究所が機能するためには、そこで研究に従事する人材が必要だ。ドイツでも米国でも大学改革が先行し、中央研究所で働く人材を大学が輩出した。この構造の日本版が、大学院修士課程の充実だったと考えられる。

 ただし、大学院修士課程の大きな存在感は日本に特有だ。ドイツの大学に大学院はなかったと先に述べた。しかし、学位は早くから存在する。取得すべき学位は博士号である。米国の大学院生にとっても、目指すは博士号だ。博士になれば、職業的地位や収入面で優遇される。欧米では「修士」の存在感は小さい。

 ところが日本の大学院で存在感が大きいのは、修士であって博士ではない。大学院博士課程は、いまなおうまく機能していない。

 この時期の日本企業は、大学の供給する人材を争って求める。しかし、大学の研究には関心が薄かった。ときはリニアモデルと中央研究所の全盛期だ。それは自前主義の全盛期でもある。各大企業は主だった大学の有力教授に、「奨学寄附金」を広く薄くばらまく。「ときどきは優秀な学生さんをウチの会社にくださいよ」、大学教授にこう頼むためのあいさつ代わり、これが大企業から個々の大学教授への奨学寄附金の実態だった。