新記録誕生に貢献したのがこのような陰の努力と思いでしたが、なんといっても最も大きく貢献したのは、病床にあった奥アンツーカ社長の奥 庚子彦(かねひこ)氏の願い、すなわち「100m走で10秒を切る、という人類未到の大記録を新アンツーカで生み出したい!」という意志だったのではないでしょうか。

 その男子100m走の予選と決勝は10月15日。運の悪いことに、その前の13、14の両日は37mmの雨が降り、記録は絶望的と誰もが思いました。しかし、新アンツーカはその実力を遺憾なく発揮したのです。ボブ・ヘイズ(Robert Lee Hayes、米国)が予選で9秒9(追い風のため公認されず)、決勝では10.0秒の世界タイ・オリンピック新記録を出して、世界最速の男の称号を手にしました。

 ベルリン五輪100m走の覇者ジェシー・オーエンス(James Cleveland Owens、米国)は「前日の雨の後で、こんなにコースが良くなるとは思わなかった。どんな人がこれを造ったのだ。ボブ・ヘイズはその人に感謝すべきだ」とコメントしました。国際陸連会長のデヴィッド・バーリー(David Burghley)エクセター侯爵(イギリス)は「史上最高のトラック」と称えました。 

 男女合わせて世界記録11個、オリンピック新記録68個を生んだ東京五輪は、10月24日、閉会式の「メキシコで会おう」の合い言葉とともに、幕を閉じました。  

国産アンツーカ、メキシコ五輪で全天候型サーフェスに敗れる

 東京五輪に続き、1967(昭和42)年8月のユニバシアード大会、タイ・バンコクでの2回にわたるアジア大会やSEAP(Southeast Asian Peninsula)ゲームは、陸上競技におけるアンツーカの黄金時代でした。しかし競技者が記録の向上を走路の改良に求め、度重なるアンツーカの改良によってそれに応えるというパターンは、既に限界に達していました。

 一層の記録更新には、既存の価値を超えた新たな素材の実現が必要でした。そこへ登場したのが、全天候舗装材です。米3M社が米MCP Industries社と開発した舗装材「タータン(Tartan Track)」は、これまで誰も見たことがない画期的な存在でした。タータン舗装材は特殊なポリウレタン(以下ウレタン)樹脂で作られ、アスファルトのトラックとは明らかに異なった弾力性による走りやすさを持ち、耐久性が高く、陸上競技の激しいスパイクにも傷まない丈夫さを有していました。

 価格は日本円に換算して1万8000円/m2。奥アンツーカが当時手掛けていたトラックの2倍以上であり、東京郊外の一坪当たり地価に相当する、とても高額なものでした。

 オリンピックでは東京大会までアンツーカ時代が続きましたが、1968(昭和43)年第19回メキシコ大会から全天候舗装へと移行していきます。東京大会から衛星中継が始まり、高額な放送権を買ったテレビ局にとって、雨で試合が流れて放送できないという最悪な状況を回避できる全天候型舗装は、必然だったと想像できます。

 走者にとっても、非常に走りやすく記録が出やすいため、アンツーカよりタータンで走りたいと人気が高まっていったそうです。アンツーカ時代以前は、陸上競技用スパイクは8mmや19mmなど長さの違いがあり、試合時には実際に走路に出てみて、立ち沈む感覚で柔らかいと感じたときは19mm、硬そうなときは8mmと自分で決めるのが常でしたが、その必要もなくなりました。アンツーカ舗装には高い施工技術と高度な管理ノウハウが必要なのに対し、競技ごとのメンテナンスが不要で1年中コンディションが一定という、極端に優れた特徴を持っていました。

 本来、「タータン」トラックは陸上競技用に開発されたものではなく、繋駕(けいが)レース(人が2輪車に乗り、それを馬が牽(ひ)いて早さを競う)のファンである3M社の会長が、そのレースコース用に開発したのが始まりです。大のテニスファンだった奥 庚子彦社長がサーフェス会社設立へ動いたように、タータン開発のモチベーションも繋駕レース好きが高じたものでした。人の原動力として、好きという感情に勝るものはないとつくづく思います。

 好きになるには、対象に魅力があること以上に、それを受け入れて魅かれる心が必要です。受け入れる柔軟な心は、何から生まれるのか、育った環境なのか、遺伝的なものなのか。心理学の代表的な命題ですが、筆者は養育者が重要だと思ってしまいます。この話題は、またどこかで論じたいと思っています。