開発の背景が何であれ、タータン舗装材の陸上競技場への転用は、スポーツ舗装材に革命をもたらし、頭打ちになっていた記録更新への導火線となりました。何よりも、“記録が出るトラック”こそ、多くの陸上競技関係者が抱いてきた夢でした。

 夢のトラック出現の報を受けた日本陸上競技連盟は、早速メキシコ五輪強化対策として、それまでアンツーカで造られていた東京都立体育館競技場(国立霞ヶ丘競技場に隣接)の走路をタータンに改修する方針を打ち出しました。弾力を生かして走るタータンに適した走法はアンツーカと異なるため、新しい走法に慣れておかないと、アスリートは記録を出すことはおろか、足腰を傷める恐れがあったからです。

 その工事は米国から技術者と施工機械を招いて始まりましたが、どのように魔法のトラックが造られるのか一目見たいと集まった日本の関係者に対し、3M社は工事現場への入場を一切禁止し、厳重に警備しました。覗き見ることもできない施工現場でしたが、ともかく1966(昭和41)年、我が国初めての全天候トラックが出来上がりました。

 しかし、我らが日本は諦めませんでした。タータンの成功は世界の陸上競技界に全天候トラック時代の開幕を告げるとともに、日本国内では全天候舗装国産化への道が始まりました。いち早く西ドイツではバイエル社が「レコルタン(REKORTAN)」を開発し、1972(昭和47)年ミュンヘン五輪で全天候トラックを用意するという情報が伝えられました。

 これに遅れを取るまいと、日本では三井東圧化学(現三井化学)と大日本インキ(現DIC)がウレタン舗装材を国産化し、タータン旋風が吹き荒れたわずか2年後の1970(昭和45)年、国産の全天候トラック(400m)を東京・世田谷区大蔵に完成させました。技術的には未熟な部分もありましたが、輸入品に頼らない国産全天候トラックの誕生が近いと誰もが確信できるほどの性能だったそうです。その後1973(昭和48)年の第28回千葉国体に国産の全天候トラックが登場しましたが、主競技場はタータンで、国産品は練習競技場での使用に留まりました。国産品の完全初デビューは、1977(昭和52)年の第32回青森国体でした。

 ただ、大きなインパクトを与えた「タータン」でしたが、紫外線による劣化が著しい(チョーキングと呼ばれ、白くなってしまう)という弱点がありました。タータンを採用した各国の陸上競技場の他、日本でも第28回千葉、第29回茨城、第31回佐賀の各国民体育大会競技場でもチョーキングが現れました。その後3M社はタータンの販売を中止しましたが、ウレタン系全天候トラックはその後も発展を続けています。その発展の経緯を、次回に解説したいと思います。