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 締めが甘いと言われることがある。プロジェクトをまとめるときに、最終段階になって重要事項を忘れていたのが分かったり、それまではしっかりとやっていたのに、最後の最後になってチョンボ(ミス)したりするのである。

 また、宴会や呑みの席で一区切りをつけようと最後に飲むのが「締めの一杯」で、勘定するときには「締めて」と言う。

 要するに、これでおしまいというときに締めと言うのだが、ときには〆とも書くのであるから、最後の仕上げでもある。

 人生も、晩年になって締めが必要になる。自ら命を〆ることはできないが、そろそろ最期が来るとなったそのときに困らないよう、あらかじめ準備しておくことが肝心なのだ。

 中には、賢人なのか大人(たいじん・徳の高い立派な人)なのか、自分の最期を悟り、サッサと相続のことや事業継承などを片付けて、家族に見守られて眠るように逝く人もいるそうだが、それは理想の世界だ。

 普段、我々は逝くことを考えないし、その備えをする余裕もない。だから、大方の人はその時になってオロオロすることが多いのではあるまいか。

 このように、言われれば大事だと思う最後の締め。なのに、それが中々上手にできないところが、浮き世の定めかもしれない。

 最近も、身近でこんなことがあった。行きつけの飲み屋で知り合った、もう30年来の知人である。

 その人は、現役時代にはそれこそ飛ぶ鳥を落とすような勢いであったそうな。聞けば、高度経済成長期にはグングンと売り上げを伸ばし、その後も業界ではその名を知らぬ者はいないほど有名な経営者だった。

 それが1年くらい前だろうか、90歳を目前にして会社を譲渡したのである。これでやっと悠々自適。これからは楽しい老後が待っていると思ったのだろうが、どうも、楽しそうではないのだ。どう見ても、本人の気持ちが晴れる様子がないのである。

 以前のように仕事仲間で呑むことは一切なく、いつの間にか怪しげな取り巻きが増えたのである。今まで疎遠だった人物が親友と言って近寄って来たり、稽古仲間(趣味の世界でも長けていた)と名乗る人たちが、いつも周りを取り囲むようになったのだ。

 そして、その人たちは口癖のように「あなたの老後を見守ってやる」「そばに居て、ちゃんと最後をみてあげる」と言いながら、帰りのタクシー券まで出させ、おんぶに抱っこで散々飲み食うのである。

 中には、本当に見守る人もいるのだろうが、それならそれで、しっかりと勘定も管理してあげればよい。あえて言うが、これではタカリである。

 私が気に入っている馴染みの店で、そんな輩(やから)を見るにつけ、しかも、見て見ぬ振りができない性分だから仕方ない。蓄えはあるだろうが、ほとんど年金以外の収入がない老人に、そこまでお金を使わせる輩に腹が立ち、放っておけばよいものを、ある時、独りでいる本人に苦言を申し上げたのである。