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 前回は、古代から続く哲学上の「普遍は存在するか」をめぐる論争(中世には「普遍論争」と呼ばれた)に終止符を打つべく小論を展開した。今回は、それを踏まえて「本質」を掘り下げる。

精神内部の「事物の像」全体を見る

 「普遍」とは、存在する事物に当てはまる「存在しない事物の像」である。前回、このことを見たが、まだ「事物の像」全体を見ていない。そこで、改めて「事物の像」を分類すると、次のようになる。

 精神の内部に発生する「事物の像」には、「存在する事物の像」と「存在しない事物の像」がある。この内、「存在する事物の像」には、存在する事物に当てはまるものしかない。対して、「存在しない事物の像」には、存在する事物に当てはまるものと、存在する事物に当てはまらないものがある。

 そして、「存在する事物の像」は、「一つ一つのある事物に当てはまる認識」という「個別」である。また、「一つ一つのある事物に当てはまるさま」という「個別性」を持ち、「個別的」である。

 だから、一般的に考えられているように、一つ一つの「ある事物」としての「ある事物」は「個別」であり、「一つ一つのある事物であるさま」という「個別性」を持ち、「個別的」であるのは確かだが、それだけが「個別」ではない。一つ一つの「ある事物」としての「ある事物」に当てはまる「存在する事物の像」も「個別」である(いや、むしろ、精神の内部に発生する「存在する事物の像」が「個別」であるから、それが当てはまる一つ一つの「ある事物」が「個別」であると言うべきなのだが、これ以上の「個別」の話は置いておく)。

 他方、前回述べたように、存在する事物に当てはまる「存在しない事物の像」は、「ある事物全てに共通して当てはまる認識」や「範囲」などのことだ。そして、「ある事物全てに共通して当てはまる認識」は「普遍」であり、「普遍性」を持ち、「普遍的」である。

 それに、存在する事物に当てはまらない「存在しない事物の像」は「空想上の事物」であり、これが「普遍」でも「個別」でもないことは、言うまでもない。