デザインとともに昭和を疾走した亀倉
この『朱の記憶 亀倉雄策伝』という本は、亀倉雄策という人を通して、デザインから見た戦前〜戦中〜戦後のあり方というものを見ています。これらを見ることで、今どうすべきなのかということが見えてくると、僕は考えています。
では、亀倉は実制作者としてどのような生涯を送ったのか。彼の生涯は、大きく4期に分けられると思います。
まず第1期は、1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年の敗戦までの15年間。このとき亀倉は、悪戦苦闘しながら、自分でグラフィックデザインというものを学び、独自のビジュアル表現で自らの立場を築いていきます。戦争というものの中で表現活動を行うには、どうしても戦争に加担していかなければなりません。彼は、『NIPPON』というプロパガンダ(対外宣伝)のためのグラフ誌を作っていきました。この仕事で彼は非常に力をつけたわけですが、敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)により公職追放となります。
戦後、日本がどのように進んでいくのかが分からない中、彼はフリーとなり、戦前の仲間を募りながら、グラフィックデザインという地平をならしていきました。日本宣伝美術会(日宣美)の創設、グッドデザイン賞のロゴマークを手掛けたのもこの頃で、戦後の15年間が彼にとっての第2期と言えます。
そして1960年からの第3期。彼は東京オリンピックのエンブレムやポスターをつくりました。「もう一度、世界に向けて高々と日の丸を揚げよう」ということを表現したビジュアルによって、「これから日本はどう進めばいいのか」というグランドデザインを成したわけです。
最後の15年間では、グラフィックデザインの価値を高めることに注力しました。彼は、1980年に紫綬褒章をもらいます。そのとき、棋士や落語家とともに褒章されたわけですが、「俺たちは、将棋指しと一緒かよ」と怒り狂ったともいわれています(笑)。それぐらい、グラフィックデザインの価値や地位を高め、新しい産業、新しいテクノロジーとして確立することを熱望していたんです。