亀倉に影響を与えた先達たち
現代のデザインと亀倉雄策のデザインを比べたとき、最も違うところは「知的さ」「重厚さ」であると僕は思っています。デザインというものは、どこかに知性を感じさせなくてはならない。それが亀倉にはあり、現代のデザインには足りない。そう感じています。 亀倉は、先達の影響を受け、知的さ、重厚さを身につけていきました。彼を語る上で、戦前のグラフィックデザインを担った人々についても紹介しようと思います。
亀倉は、19歳の頃に新聞に掲載された「少年図案家を求む」という広告を目にしてグラフィックデザインの世界に入っていくわけですが、その応募先が太田英茂という人が立ち上げた共同広告事務所でした。コピーライターとデザイナーはバラバラに仕事をすることが当たり前だった時代に、フリーの人を集めて広告業界に共同作業のスタイルを持ち込んだ人で、日本で初めてタイアップ広告などを手掛けた人です。そんな彼の事務所に、亀倉雄策がやって来た。
その共同広告事務所には、原弘という人がいました。この人は日本のタイポグラフィの礎を築いた人で、彼もまた、戦中にはプロパガンダのためのグラフ誌『FRONT』をつくります。戦中、『NIPPON』の亀倉と『FRONT』の原は、お互いに意識し合いながら切磋琢磨していった。
亀倉は共同広告事務所を経て、日本工房という組織に入り、そこで『NIPPON』を手掛けたわけですが、この日本工房は名取洋之助によって立ち上げられました。名取は日本のドキュメント報道の基礎をつくった人で、彼の下には小津安二郎のポスターを手掛けた河野鷹思、資生堂の企業ロゴをデザインした山名文夫といった人々が集い、『NIPPON』を創刊したんです。亀倉は、彼らから学び、戦後に向けて力をつけていったわけです。