デザインがやせてきた理由
奥村 もともとは、コンペに勝っても賞金はなしだったのですが、最終的には100万円が支払われるということになっていましたね。なぜそうなったのかは分かりませんが。
馬場 無料なり100万円なり、やはり、その見返りの少なさは、ビジュアル・アイデンティティーに対する価値が日本人には分かってもらえていないんじゃないかと思いましたが、奥村さんはいかがですか?
奥村 いや、僕はそうは思っていません。ただ、今回のエンブレム問題を通して、いいものを生み出すためのシステムをしっかりつくらないといけないと感じました。
亀倉さんは、戦後の発展途上、企業とがっちり組んで、その中でより良いデザインをつくり上げていった方ですよね。でも我々の世代は、企業と対等に組むということはあまり意識してこなかったんです。そのため、発注者側と受注側の関係性が非常に希薄になってきているんじゃないかなという気がしています。
特に1980年代、1990年代頃から、あらゆる案件でコンペを行うようになってきました。コンペに慣れてしまっているということも、影響しているのかなと感じます。ただそれは、我々デザイナー側が積極的に発信してこなかったということも問題です。

馬場 確かに広告をつくる際にコンペを行うことは本当に多くなりましたね。昔は、企業の宣伝部の人たちが、どのような広告を、どんな目的でつくるのかを明確にした上で制作していました。だから、こういう戦略ならコピーライターは馬場がいい、デザイナーは奥村が最適だといった考えの下、制作者を指名することが多かった。そんな中でなぜコンペが増えたかというと、企業の担当者が何をしていいか分からなくなっているからなのかなと思っています。
それは、日本が高度経済成長すると同時に、経営者が社員に経営のことを学ばせるために、さまざまな部署をローテーションさせるようになったからではないでしょうか。それによって社員は、会社の中でバージョンアップしていくけれど、広告に対する考え方はバージョンアップしないようになってしまった。
奥村 特に1980年代後半から、そうしたことが過剰になってきましたね。
馬場 「コンペをすることが公平である」という感じになっていて、公平であることが常に要求されますが、僕は広告表現において公平という考え方は絶対にいかんと思っています。
こちらは表現としてコンペの案を出しているけれど、ほかの参加者は始めにコストありきで単価計算を前提に提案していることが多い。すると、ちょっと見ただけだとその参加者の方が金額が安いからそこに決まる、なんてこともあります。先ほど講演で話したように国家や企業のデザインがやせている理由は、そういったところにあるかもしれないですね*2。