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顧客企業の立場に立って課題解決を目指すのは,ITエンジニアにとって重要な資質である。しかし,それも度を越すと同僚からの嫉妬を買うことに。プロジェクト内の不協和音は,システム開発作業の大きな妨げになる。

イラスト 野村 タケオ

 顧客企業向けにシステム開発や保守サービスを提供するH社は,業界でも有数の成長企業だ。そのH社にSEとして勤務するTさん(29歳)は,6年前に入社して以来,順調にキャリアを積み上げてきた。様々な業種や業務におけるシステム案件を経験し,2年前にはサブ・リーダーに昇格した。持ち前の明るさと積極性を買われての,抜てき人事だった。

 そのTさんが,食品加工メーカーであるK社の物流システム構築プロジェクトに参加したのは,1年前のことである。H社の同僚エンジニア10人とともに乗り込んだのだ。

 このプロジェクトの目的は,市場からのニーズに即応できる物流体制を築くこと。K社で旗を振っていたのは,創業社長の長男であるA常務だった。かねてから,K社における情報化の必要性を叫んでいた人物である。システム部門をはじめ,物流部門や業務企画室から横断的に召集した社内のプロジェクト・メンバーを精力的に引っ張っていた。

 TさんをはじめとするH社のSEが着任するとさっそく,システム設計作業が始まった。K社のプロジェクト・メンバーが取りまとめた新たな業務構想や処理手順を,具体的なシステムに落とし込む作業である。K社が作成した業務仕様書には,不備や不明点が少なくなかった。しかし,Tさんは丁寧に対応しつつテキパキと設計作業を進めていった。

A常務の信頼を得る

 こうしたTさんの仕事ぶりは,A常務に大きな安心感を与えた。A常務は,自社のメンバーに不安や物足りなさを抱いていたからだ。

 というのは,K社はこれまで情報化にあまり力を入れてこなかった。このため,新システムに対する社員の理解や関心は低く,むしろ仕事のやり方が変わることへの拒否反応が強かった。自社のシステムを構築しているにもかかわらず,「いいんじゃないでしょうか」,「私の専門ではないので分かりません」と他人事のような発言ばかり。それがA常務をいら立たせていたのである。

 開発作業が進んでも,K社のメンバーの士気は一向に高まらなかった。その一方で,システム開発における問題点を指摘するだけでなく,その改善策を提案するTさんの取り組み姿勢はひときわ目立っていた。

 気が付くと,A常務はTさんにばかり意見を求めるようになっていた。受注業者の立場を超え,K社の社員以上に親身になって新システムについて考えてくれるTさんは,A常務にとって唯一頼りになる存在だったのである。他のプロジェクト・メンバーは,そんな2人の様子を嫉妬と羨望が入り混じった複雑な思いで見ていた。

 ある日,Tさんがいつものように夜遅くまで作業しているところにA常務がひょっこり立ち寄り,声をかけた。「毎日遅くまでご苦労さん。今日はこの辺で切り上げて,食事にでも行こうよ」。Tさんは,素直に応じた。

転職の打診に慢心

 一杯飲みながらの食事が進むと,A常務は急に改まった顔つきでこう切り出した。「T君もすでに気づいていると思うが,当社には頼りになるシステム担当者がいない。このままでは,時代の変化についていけず生き残れない」。A常務はここで一息おき,さらに先を続けた。「相談なんだが,うちへ来てくれないかな。今回のシステム構築が終わった時点で入社してもらいたいんだよ。私は間もなく,親父の跡を継ぐ。悪いようにはしない」。引き抜きの打診だったのである。Tさんがどう答えようかと迷っていると,「近日中に返事をくれ。それと,この件についてはまだ誰にも言わないように」と釘をさされた。

 A常務と別れて帰宅する途中,Tさんは嬉しさを抑えられなかった。システム開発の仕事は好きだが,毎回異なる顧客企業を案件ベースで渡り歩くことに,不安や疑問を抱いていたからだ。1年前に結婚したこともあり,「しっかりした業務知識を身につけて,専門性の高い仕事に腰を落ち着かせたい」という思いが高まっていた。そんな矢先にA常務から声をかけられたのだから,Tさんが有頂天になるのも無理はなかった。

 とはいえ,転職といえば人生の一大事。Tさんは,A常務の申し出を受けるかどうか数日たっても決めかねていた。そこでつい,今回のK社プロジェクトに参加している同僚に悩みを打ち明けてしまった。本音を言えば,「自分は顧客から引き抜きを受けるほど優秀なのだ」と自慢したい気持ちもあった。このちょっとした驕りがプロジェクトに致命的な悪影響を及ぼすとは,思いもよらなかった。

結束弱まり最悪の結果に

 人の口に戸は立てられない。Tさんが引き抜きを受けたという話は,その日のうちにプロジェクト全体に広まってしまった。それからというもの,TさんはK 社のメンバーからまともに対応してもらえず,H社のメンバーにも遠巻きにされるようになっていた。何となく肩身が狭くなり,ミーティングでの発言回数も大幅に減った。

 一方のA常務は,部下の態度がよそよそしくなったのを感じていた。社内よりも他社の担当者を評価していたことが明らかになっただけにバツが悪く,今までのように堂々と指揮できなくなった。

2人がリーダーシップを失ったことで,プロジェクトの熱気は急速に冷めていった。A常務がTさんに話しかけることはほとんどなくなり,転職話もうやむやになった。

 K社の新物流システムは,予定の2カ月遅れで辛うじてカットオーバーした。しかし,十分なテストや検証は実施しないまま。多くの課題を残しての船出になった。Tさんは今,後味の悪さを引きずりながら,別の顧客企業でシステム構築に携わっている。

今回の教訓
・顧客企業内で作業していると,思わぬ問題に遭遇することを覚悟すべし
・自分が優秀だから請われていると錯覚するな。顧客は,自社に都合の良いことだけを要求してくる
・しかし,顧客から求められるぐらいの一流のITエンジニアを目指そう。顧客に誘われたら,結論は自分自身で出すべし

岩井 孝夫 クレストコンサルティング
1964年,中央大学商学部卒。コンピュータ・メーカーを経て89年にクレストコンサルティングを設立。現在,代表取締役社長。経営や業務とかい離しない情報システムを構築するためのコンサルティングを担当。takao.iwai@crest-con.co.jp