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 「何に一番困ったかというとメディアへの対応でした。色々リスクがある中で、メディアリスクが最大かつ最難関です」

 メディアリスクという言葉を聞いたのは、ある勉強会の席上であった。情報システムに関連するあるトラブルを起こした企業の幹部が、トラブルの経緯を振り返りつつ、冒頭のように仰った。その方によれば、「顧客、警察、監督官庁、社内外関係者、すべてに応対しなければならなかったが、一番厄介なのがメディアだった」という。

 厄介だという理由をこの幹部はこう説明された。「会見や個別取材で、どれだけ時間をかけて説明しても、まったくこちらの主張を分かってくれない。というより、そもそも理解しようという姿勢にない。記者のほうが結論を用意していて、それに合うコメントだけを取って帰ろうとする」。

 その勉強会に出席していた方々は皆、大きくうなずき、「まったくその通りだ」という顔をされていた。筆者はたまたま、この幹部の左隣に座っており、思わず「仰る通りです」と情けない発言をしてしまった。

 以前、「マスメディアのIT音痴から身を守る方法」と題したコラムの中で、マスメディアはITに関して正しく報道できない、だから企業は自分で防衛せよ、といった主旨のことを書いたところ、相当数の読者からお怒りの書き込みを頂戴した。お怒りはもっともであり、メディア側の問題を何とかしなければならない。

 だが、考えれば考えるほど、この問題は根深く、「こうすればよい」というようなことは書けない。そもそも、かなり前からこの問題は指摘されている。例えば、寺田寅彦は1933年に、「ニュース映画と新聞記事」と題した一文の中で次のように書いている。原文は正字表記だが、今回は略字体にして引用する。


<引用>

 新聞記事は此に限らず、人殺しでも心中でも、皆一定の公式があつて、簡単に無理やりに其の型に嵌込んで書いてしまふから、どの事件も同じように不合理非常識な概念の化物で捏ね上げられたものになつてゐるのは周知の事実である。(中略)新聞記事といふものは、読者たる人間の頭脳の活動を次第次第に萎縮させその官能の効果を麻痺させるといふ効能をもつものであるとも云はれる。此れは或は誇大の過言であるとしても、吾々は新聞の観念的社会記事から人間界自然界に於ける新しき何物かを発見し得る見込は殆ど皆無と云つてよい。


 記者を生業にしているものとして、上記引用文に反論したくなるが、その前にまず「観念的社会記事」を書かないよう努力しなければならない。

 寺田は1934年、「ジャーナリズム雑感」という論文を中央公論に発表、「唯一日を争ふ競争は又ジャーナリズムの不正確不真実を助長させるに有効である」「事実の競争から出発して結果が嘘較べになるのは実に興味ある現象」といった具合に、さらに厳しくジャーナリズムを批判している。

 ではジャーナリズムにどう対処すればよいのか。「ジャーナリズム雑感」の中で、寺田は「ジャーナリズムのあらゆる長所と便益とを保存してしかもその短所と弊害を除去する方法として考えられる一つの可能性」として、「主要な新聞を私人経営になる営利的団体の手から離して、国民全体を代表する公共機関の点に移す」と提案している。

 「国民全体を代表する公共機関」ならすでにあるがその機関も「観念的社会記事」を毎日報じているではないかと言いたくなるが、寺田自身、この提案が有効とは思っていない。すぐ後に、「現在のジャーナリズムに不満を抱く人は可也に多いやうであるが結局みんなあきらめるより外はないやうである」「この狂風が自分で自分の勢力を消盡した後に自然に凪ぎ和らいで、人世を住みよくする駘蕩の春風に変わる日の来るのを待つより外はない」と書いているからだ。狂風とはジャーナリズムのことである。

 その上で寺田は読者に古典を勧める。「毎日繰返される三原山型の記事には疾の昔に黴が生えて居るが、たまに眼を曝す古典には千年を経ても常に新らしいニュースを読者に提供するやうな或るものがある」。ちなみに「三原山型」とは、三原山で投身があったという記事が繰り返し出ることを指す。 

 古典にニュースがあるのはその通りだがメディアの記事にも真のニュースがある、と言い返したくなるが、その前に「三原山型」記事の量産を止めないといけない。今回、メディアについて筆者が書いたコラムを3本再掲した。少なくとも「三原山型観念的社会記事」ではないので、関心がある方はぜひお読みいただきたい。

(谷島 宣之=「経営とIT」サイト編集長)


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