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 ITエンジニア,特にシステム保守を担当するSEは,医師のようなものだとつくづく思う。

 医師はレントゲンや血液検査など様々な方法で患者を診察・診断し,治療を施す。SEもソースコードを眺めたり再現テストを行ったりしてシステムの不具合の原因を調査し,適切な処置をとる。病巣の摘出はソースコードのデバッグに当たるし,臓器の移植手術はハードウエア障害における部品交換に似ている。

 大きな違いがあるとすれば,その処置が生命にかかわるかどうか,ということだろう。手術には患者の命がかかっているが,デバッグで人が死ぬことはまずない。不具合の修復というと冷や汗びっしょりになるSEがいるが,しょせん相手は機械。ユーザーには申しわけないが,「人の生死を左右するわけではないのだから,気楽にいけ」と言いたくなる。

 ところで,医師が患者に施す治療にも様々なものがある。例えば,応急手当てと根治治療では,その目的も方法も大きく違う。障害が発生したときにSEがとる行動も同様で,応急処置をまず施し,それから完全修復を目指すのが常道だ。いずれのケースにも“完治”が見込める点で希望がある。だが,治癒の見込みがない延命治療は別だ。医師の挫折感からくるのか,最期を待つ患者への悲哀からくるのか,延命治療にはどこか無力感がつきまとう。

 システムの世界にも延命治療と呼ぶべき仕事がある。それは,新旧交代を待つだけの「レガシー・システム」の保守だ。レガシー・システムを担当し,多少でも愛着を持つSEなら,その最期を見届けるときに長年のパートナーを失ったような寂しさと悲しみを覚えるはずである。

 筆者もSEだった十数年間に,担当システムの最期を2度見届けた。“延命治療”を続けながら頻発するトラブルで散々な目にあったが,世話が焼ける分,愛着も強かった。新システムへの切り替えも担当したが,そのときの気持ちは今でも忘れられない。すべての作業が完了して旧システムの電源を切った時,ブーンというファンの音が次第に弱まり,インジケータ・ランプが消え,最後に物言わぬただの鉄の塊となった姿を見て,思わず涙が出た。長年,面倒を見てきたシステムが永遠の眠りについたのだ。しかも,最後に息の根を止めたのは自分自身である。

 しかし,そのうちレガシー・システムの延命治療は,希望に満ちた作業ではないかと考えるようになった。経験のあるSEなら分かると思うが,システムの新旧交代と言っても,レガシー・システムの業務ロジックそのものが使い物にならなくなるケースは意外と少ない。金融であれ流通であれ,基本的な業務プロセスは大きくは変わらないからだ。ただ,取引件数の増加や環境の変化などによって,システムにより高い拡張性と柔軟性が求められるようになり,機能レベルではなく構造レベルの変革を余儀なくされることが多いのである。

 筆者の経験したシステムでも,大きく変えたのは開発言語や基本ソフト,そして処理形態といった構造レベルのものであり,基本的な業務ロジックはほぼそのまま引き継いだ。画面などのユーザーインタフェースもほとんど変えなかった。極論すれば,入れ物と環境を変えただけで,旧システムの「心」は受け継いだのである。そう考えると,愛着あるシステムが死んだといっても,さほど悲観的になることはないのかもしれない。

 人の命を引き継ぐことはできないが,コンピュータ・システムの心は引き継ぐことができる。レガシー・システムを1日でも長く延命しながら次世代のシステムにつなげていくことは,いわば「命の連鎖」なのではないか。そう考えるようになってから,筆者は自分の担当している保守作業にいっそう誇りが持てるようになった。SEの施す延命治療は,期待と希望に満ちているのである。

岩脇 一喜(いわわき かずき)
1961年生まれ。大阪外国語大学英語科卒業後,富士銀行に入行。99年まで在職。在職中は国際金融業務を支援するシステムの開発・保守に従事。現在はフリーの翻訳家・ライター。2004年4月に「SEの処世術」(洋泉社)を上梓。そのほかの著書に「勝ち組SE・負け組SE」(同),「SEは今夜も眠れない」(同)。近著は「それでも素晴らしいSEの世界」(日経BP社)