「あの一件は水に流す」顧客からその言葉が出たとき、受注が決まりました。新任の根積課長の大失態は、担当営業の猫柳君の営業根性でリカバリーすることができました。意気揚々と戻ってくる猫柳君。一方、開発部から見積もりを拒否されていた坊津君の案件も、開発二課の松本課長が見積もりを引き受けてくれることになり、一歩前進に見えましたが…。
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「ただいま!」
営業部のドアが開いて勢いよく猫柳君が帰ってきたのは、夜の9時を少し回ったころでした。
「やりました、ブルドッグ受注です! 契約書持ってこいって!」 部屋中に聞こえるような声で両こぶしを突き出して叫んだとき、オフィスには分厚い書類と格闘している根積課長しかいませんでした。
「あ、そうですか。ま、私が同行したのですから、当然ですね」
「あ、ああ。あのですね…」 猫柳君は根積課長の席に気色ばんで迫りました。
「古戸社長が会ってくれなくなったのは、あなたのせいだったんですよ!」
「いったい何の話ですか? 前回の折衝では古戸社長はご機嫌だったじゃないですか? 他人の責任にしてはいけませんよ、猫柳さん」
「あの、その、えっと…」
目を合わそうともしないで平然と言い放つ根積課長を見て、『本当に腹が立つと人間は言葉が出てこないもんなんだ』と思いながら言葉を探す猫柳君です。
「お、猫柳。おめでとう」 そこに現れたのは中田部長でした。
「ああっ! 中田部長、お帰りなさい! 日本に帰っていらしたんですね」
「どうした? 猫柳。ブルドッグさん、受注できたんだろ? あっちの部屋まで聞こえたぞ。何をそんなに怒ってるんだ?」
「もう、そもそも部長がアメリカに行ってるから、こんなことに…」
「猫柳さん、おめでとうございます」
コーヒーを片手に割り込んできたのは、リエピーこと後藤さんと桜井君でした。
「猫柳、大変な交渉をしてきたようだな。顔に書いてあるぞ」と中田部長。
「部長、とりあえず報告を聞いてください」
「ん。簡単な話ではないようだな、分かった、聞こう。でも今日はもう遅い。軽くやりながらでどうだ。祝杯だし、俺も久しぶりに日本酒が飲みたいね」
「あ、そうだ! 部長は帰国したところだったんですよね。お疲れでしょうから明日にしましょう」
「ダメダメ。こういうのは当日じゃないとね。桜井、リエピーも来るか?」
「今、楽多を辞めたSEに連絡を取ってるんで…」
「うむ、状況は?」
「あと1人で終了です! でもアタシが掛けて、奥さんが出るとヤバイ雰囲気になるんですよ。あはは」
「じゃあ、ひと段落したら来なさい。いつもの居酒屋にいるから。根積課長はどうですか?」
『あっ。だめだよ。根積さんの悪事を報告できなくなっちゃうよ…』 猫柳君が止める間もなく、書類にうずもれている根積課長にも声をかけた中田部長でした。
「いえいえ、私はまだまだ作業がありますので。どうぞ、皆さんで」
『年上だからって、部長の誘いを顔も上げず断るなんて本当に失礼なやつだ。あんたのやったことを部長に言いつけてやるんだ』 そう猫柳君は思いました。
「そうですか、頑張ってください。ところで根積課長、坊津を知りませんか?」
「彼なら会議室にこもってますよ」
「そうですか、じゃ放っておきましょう」
『いつもは全員に声をかけるのに、どうして坊津さんを放っておくのだろう』といぶかしく思った猫柳君でしたが、根積課長が来なくてホッとした気持ちがそれをかき消しました。
中田部長と猫柳君が入った小さな居酒屋では、内藤課長代理が先に入って待っていました。
「お疲れ様です、内藤さん」
「あ、猫柳君、受注したんだっておめでとう。一足先にやってるよ」
内藤課長代理は、猫柳君への誉め言葉もそこそこに中田部長に向き直り、「お疲れ様でした中田部長。出張の首尾を聞かせてください。今回の目的は…」
「すまない、内藤君。今日は先に猫柳の話を聞かなくちゃいけないんだ」
「内藤さんも聞いてください。実は今日…」
猫柳君の話が始まりました。
「大変だったね。でも逆転満塁ホームランじゃないか!」 内藤課長代理は少しもらい泣きしています。「本当、良かったね。僕は感動しましたよ」
「そうか、そんなことがあったのか…」 中田部長はきゅっと杯の日本酒を飲むと、こう言いました。「よく頑張ってきたな。そして、留守にしていてすまなかった。申し訳ない」
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(イラスト:尾形まどか) |
「いえ、部長が謝ることじゃないですよ。それより根積課長ですよ」
「課長が、なあ」 腕組みしながらなんともいえない相槌を打つ内藤課長代理です。
「あんな無茶苦茶な人、配置換えしてくださいよ。古戸社長の言う通り、営業の課長としてふさわしくない人です。会社として疑われますよ」
「…」黙って猫柳君をじっと見つめる中田部長です。
「あ、その…あの…言い過ぎかもしれませんけど。でも事実、僕は…」
「ちょっと待て。そもそも、そんな重要な場面に彼を連れて行ったのは君の判断だろ?」
「そりゃまあ…そうなんですけど…。だって課長だし。じゃあ僕が悪いっておっしゃるんですか?」
「そうだよ、君が悪い」
「課長だからって、なんでも連れていきゃいいってもんじゃない。適材適所。会社にだっていろんな人はいるんだ。キャスティングも営業のテクニックの1つだ」
「そういうもんですか…」
「まあ結果オーライじゃないか。お前と古戸社長のリレーションは強くなったんだしな。まあ俺に任せておけ。古戸さんのとこは、次は俺が謝りにいくよ」
「じゃ改めて乾杯しよう。ブルドッグ自動車受注に乾杯!」 内藤課長代理がグラスをあげたときです。
「ちょっと待ってくださいよー。ハラペコの桜井を忘れてませんか」
ガラガラッと引戸が開いて、桜井君とリエピーが入ってきました。
「やせる思いしたから早くカロリーを補給しないと」
「桜井さん、やせる思いと、実際にやせるのは全然違いますから!」 いつもなら坊津君がいれるツッコミですが、なぜか今夜はそれを猫柳君が担当していました。
「ちくしょー。竜一郎のやろう」
みんなが祝杯を挙げているとき、社内で一番小さな会議室にこもって、一人ぼっちでドキュメントと格闘している坊津君でした。
「なんだ坊津、これは?」
竜一郎さんこと松本課長が引き受けてくれることになった大型案件の積算作業。そこで、資料を抱えて開発部にやってきた坊津君でした。
「これ、見積もり資料ですよ。よろしくお願いします」
「バカか、お前! やり直し!」
「ええ? だってまず企業概要でしょ、過去の折衝記録、それからヒヤリングシート。今回は、RFP(提案依頼書)は無しなのですが、現行システムのドキュメント、メニュー画面のコピー、それから…」
「これじゃ見積もれんな」
「え? 今まで協力会社さんはこれで見積もってくれてたんですよ」
「バカにされてたんじゃないのか? この程度の資料しか出さないから、リスク分を積まれて高い見積もり出されてたんだよ」
「え! そ、そうなんですか?」
「我が社のSEはええ加減なもんで見積もらん!」
「じゃあ、どうすりゃいいんですか?」
「きちんと見積もれる資料を作ってこい。まず入出力一覧と、そうだなあ…」
「くそー、あのおっさんの言う通りの資料作ってたら朝までかかるな、こりゃ。ちくしょう、でもうちの営業はみんなこんなことをやってるんだ。知らなかったなあ。頑張ってみるか」
(次回に続く)
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